年末である。いろんなことが起きた2020年だった。振り返りの記事を書く人が多い中、今年の年末は家で過ごす人も多かろうから、そういう方にとっての暇つぶしくらいにはなるだろうと思い、私も1年の振り返りの記事を書くことにするのである。このブログは、自分が自分らしく自分を表現できる舞台である。関係各方面から怒られさえしなければ、恥ずかしみもなく、陰も陽もひけらかすのである。
といいつつ、去年この記事でやったように、1年のなかでのある一部分を取り出した内容を中心に展開する。本当にこの1年、いろんなことがあったわけだが、10月から11月にかけての、標題にあるような顛末が、ある意味今年のハイライトになってしまった。それくらい、私にとっては大きな出来事であった。
記事のタイトルも
「得たいと思ったものを得られなかった話」
とか
「キャリアの挫折を味わって、そしてその後について」
とか、バリエーションを用意できたのだが、どうせここから書いていく内容も、グジグジとグルグルするだけで長文になるしかないのだから、もっともストレートにメッセージを伝えられるタイトルにしておこうと思ったわけだ。一応、冒頭で珍しくサマリを書いておくと、以下の通りになる。
- この状況下にありながら、TFJフェロー2年目は成果を出しまくったと思う
- 自分の強みは「企画屋」としての振る舞いだと考え、国家公務員経験者採用を受けた
- 経験者採用試験の合格者名簿に搭載されたが、「即戦力として光るものが見えない」とのことで、官庁訪問終了となった
- いろいろ考えた結果、あと1年は飯塚に残ったほうがいいと思い、講師登録を出した
- 来年度にやりたいプロジェクトが頭に浮かんでいるが、その先のことは一切見えていない
では、つらつらと書き始めてみようと思う。(書き終えての追記だが、18,605文字になった)
2020年の「成果」を振り返る
2019年は、教員に転身して1年目の年。職場においては、優秀で人間性も素晴らしい同僚に恵まれつつも、生徒たちとのコミュニケーションにおいては悩みと辛みを抱え続け、うまく授業ができないという、ある種の挫折を味わっていた。そのなかでも、外部講師を招聘したプログラミング教育の実践は、自分の一つの自身の拠り所となっていたことは間違いない。そして、その頑張りが認められたものとして訪れたニュースが「Softbank社主催・Pepperプログラミング成果発表会への出場権獲得」であった。
そして年が切り替わり、2020年。このPepperプログラミング成果発表会(以下、全国大会)への出場は、一つの結果であるだけにとどまらず、私の「企画屋」性分の表れにも通じる、とある取り組みへのきっかけになる。飯塚市からは、私の勤務校だけでなく、他に2つの小学校のチームも全国大会行きを果たしたのだが、その2校に声をかけ、Yahoo!の紀尾井町本社にあるコワーキングスペースLODGEを借りて、オープンスペースで生徒たちの前日プレゼン練習を開催するというのをやってのけた。LODGEで以前イベントを開催したことがあるご縁から場所をお借りする算段がつき、お世話になっているクリエイティブディレクターの青柳さんや、2019年に出会ったスピーチライターの千葉さんをフィードバッカーに迎えて、大勢の「見知らぬ大人」たちを目の前にプレゼンをさせるという、ある種全国大会本番以上のプレッシャー状況を作り出し、子どもたちはもちろん、他校の教員にも「こんな世界があるんかいな」というのを見せつけるという目論見は、見事に成功を納めた。
この、Pepper全国大会が2月の出来事。ギリギリ、コロナウイルス感染の蔓延以前に実施ができた。同じく、コロナウイルス感染蔓延以前に開催が叶ったのが、全国高校生マイプロジェクトアワードの九州サミットで、ここで私は、さまざまな方向のご縁から誘いを受け、部屋別プレゼンテーションのファシリテーターを務めた。ここで出会った高校生たちから、プロジェクトや探求の面白み、チームで物事に取り組む上で大事なことや、新たな出会いを得ていくことの尊さを学ばせてもらった。時系列で言えば少し飛ぶ話だが、ここでのマイプロアワードの経験が、2020年12月に開催された、熊本・益城アワードのファシリテーターを務めたところにつながる。
話を2月に戻して、2月末に訪れた臨時休校は、それはもうびっくりな話で、そこから72時間はドタバタした記憶しかない。そんな中でも、つい授業で語りが過ぎてしまったこの記事での出来事は、それなりに反響を得ることができた。かたや、休校中の学習をどう保証するかに関しては、遅々として進まない組織的なオンライン化に対して、小さくできることを考え、Teach For Japanがフェローに提供しているG Suiteアカウントを利用してオンライン学習教材を作成したり、同じくTFJがつながりを持っているNPO eboardさんからスモールスタートのための学習者アカウントを発行してもらって、特別支援・情緒クラスの生徒に使ってもらうなどの動きをとっていった。合言葉は「しれっとやる」であったが、休校明け以降にもGoogle Formsを活用した授業を展開していたら、同僚教員から「それ私もやりたいから教えて」と言ってもらえた。ちなみに後述する総合学習や修学旅行のまとめ活動では、Google Slidesを生徒にどんどん活用させた。
さて、4月を迎えてもなお、福岡県が緊急事態宣言下にあったから、GW明けくらいまでは学校が再開しなかったのだが、私は順調に担当学年が持ち上がりとなり、中学2年生の副担任の立ち位置に入ることになった。中2といえば職場体験の学年。人事としての腕の見せ所だと思い、総合的な学習の時間の学年担当を申し出た。「職業から逆算するキャリア教育」に違和感を覚えていた私は、「地域の仕事人の情熱を取材する」という職場体験を構想していたが、そもそも職場体験が「これできないよね」という判断になり、構想は構想で終わった。そして気がついたら、学校長が、地域で活動する里山保全の団体に話をつけ、空き家を見つけてきて庭を開墾し畑にする、というところまで話を進めていた。職業教育の代替案としての農業体験は、学年教員をして皆「マジかよ」という反応だったが、「これはやるしかない」という状態であった。
そこに対して「でもただ畑を耕すだけではつまらん」と考えていた私は、農業を一つのビジネスとして位置づけ、「マジで何もない」と皆が口を揃える校区地域において、ビジネスを生み出すという発想を持ってもらえるような授業を展開したいと考えた。そこで最初は「会社を作りたい」というアイディアを膨らませた。生産管理・販売促進・営業・経理という4部門に分かれて、それぞれの活動を行い、生産した作物を地域で販売する、と。その構想自体は面白かったが、ただ実際にワークするかは不安だったので、少しダウングレードを図り、ビジネスモデルコンテストを開催する、というところに落ち着けた。それでもなお、自分たちが畑を耕し、それで生産したものを実際に売るためのプランを考える、というのは、単なる農業体験でもなければ、プラン作りだけにもとどまらない、画期的なものだと思っている。
そんな構想を企画書に起こしながら、ゲスト講演も差し込みたいと考え、地域で農業の6次産業化を果たした事業者に、半ば突然ではあるが企画書を送ったところ絶賛され、講演会だけではなく、その後のビジネスプランコンテストの審査員に至るまでお世話になった。また、結局は実現しなかったのだが、私と同姓同名の人が、楽天傘下で農業ビジネスを行なっているという情報に辿り着き、経営企画の方までつながる、という奇跡にまで遭遇した。ビジネスプラン作りの授業を設計する上では、Pepperでお世話になったクリエイティブプランナーの青柳さんに壁打ちをお願いし、そこで「バリュープロポジションキャンバス」という武器を教えてもらい、自分なりに解釈し直して生徒たちへの授業に展開した。CMを見て、ターゲットとニーズを考えるという授業は、よっぽどのことがない限り、およそ中学校で展開され得ないものだったろう。12月にビジネスプラン発表会を実施したのだが、審査員長としてお呼びした近畿大学の先生から「どのチームも、顧客を意識した発表ができている」と評された時、心の中でガッツポーズをしたのは言うまでもない。
畑の話はまだ続く。夏頃に校長が「このままだとイノシシに食われるね、柵の設置を依頼しよう」と、例の里山保全団体に連絡を入れたところ、その里山保全団体が、竹林の間伐とあわせて、竹を使った柵を作るというアイディアを提案し、生徒たちと数回に分けて柵設置作業を行うという体験授業が計画された。計画の詳細においては、私が件の里山保全団体の方との窓口になったのだが、カウンターパートの方が元IT企業のサラリーマンで、非常にやりとりがスムーズだった。取り組みはNHKや西日本新聞の取材も受け、また福岡県の農林事務所の助成金ももらったのだが、里山保全や林業への理解を促す体験活動の助成金で畑の活動をしているのは珍しいと言われた。たしかに、モデルとして新しい。なにより嬉しかったのは、この企画でお手伝いをいただいた、里山保全団体や老人会といった「地域人材」と生徒たちが触れ合うという目的が達成されたことだった。生徒から「先生、雑談が面白かったんですよ」という感想を共有された時には、感慨もひとしおだった。
畑と並行して行われた学年の取り組みが修学旅行だった。なんとか実施できただけでもよかったと思うが、それでも「バス移動」「岡山より先に行かない」などの制約が課された中での実施で、結局「広島・宮島・錦帯橋・門司港」というルートになった。それでも、真剣に平和学習に臨む生徒の姿(生徒たちは小6で長崎を訪れている)や、GoToクーポンを使って爆買いしまくる姿、なにより、普段の生活では垣間見えなかった「ちゃんとする」姿勢が見られたのはすごく良かった。私も私で、班別研修の企画を担当し、3日目の「門司港レトロ散策」では、あえて計画を立てさせない代わりに、「かわいい」とか「重い」とか「エモい」といった形容詞でビンゴを作り、それにそぐう写真を撮ってくるという企画を入れ込み、事後の学習も含めて、生徒相互の「センス」を認め合う風土や、自分たちで話し合いながら行動するという余白を産む活動に寄与することができた。
授業では英語、学年では総合学習、そして忘れてならないのが、校務分掌で担当した生徒会顧問としての動きである。自分たちで考えて行動ができる、力のあるメンバーが揃った令和2年度の執行部役員だったが、新型コロナウイルスの影響で、学校行事がことごとく潰れていき、その結果活躍のしどころがないままに思われた。しかし、私が仕掛けた「活動コンセプトづくり」は、美術部にコンセプトをデザインした旗を制作してもらうというところに昇華され、生徒総会をZoomで行うという挑戦は無事終了し、しかしそういったことにとどまらず、役員たちからのアイディアでさまざまな取り組みを行なった。各専門委員会の計画審議に留まっていた生徒総会に「自由提案審議」の時間を取り入れたり、縮小開催となった文化発表会に向けた動画作成を行なったり、例年恒例だった老人ホーム慰問の代替としてプレゼント制作を行なったり。なにより、最後の最後に彼らが言い出した「プチ運動会」は、12/21から3日間、昼休みを利用して運動会競技をクラス対抗で行い、それを生徒会役員が自主運営するという、とんでもない企画に仕上がった。勤務校は小中一貫校なので、小学生のグラウンド使用日にも配慮する必要があったが、そのグラウンド使用日である12/22の体育館での競技「紙飛行機飛ばし大会」は、「1分間で飛行機を折って飛ばす」というルールにおける、折り時間開始時の一斉に折り始める姿が、たまらなくシュールだった。
本務における1年間のハイライトはまさしく、ICT学習・生徒会・そして「畑」であったが、本務外においてもいろんなことをしてきたのは言うまでもない。前述の「全国高校生マイプロジェクトアワード」へのスタッフ参加もその一つで、2月でのファシリテーター参加をきっかけに、12月には熊本での大会のスタッフに参画。部屋プレゼンのファシリテーションだけでなく、高校生全体への振り返りも担当した。自分にとって良かったのは、ファシリテーションを担当することで自分がイキイキとする感じを取り戻すことができたこと、その一方で、12月の熊本の場においては、うまく参加者を促しきれていないような感覚を覚え、自分がまだまだであることを思い知ったことだった。ただどうやら、自分は「安心安全な場を形成する」ことが得意らしいということについて確信を覚え始めており、事実そんな場づくりを、今年1年の間で、他に2本も実施した。
一つは、自分の誕生日にかこつけて行なったオンラインイベントである「いま、それぞれの居場所から」である。私が話し、他の登壇者が話し、最後にみんなで話す、というシンプルな構成のイベントだったが、おもしろいと感じた点がいくつかある。一つは、このスタイルでオンラインイベントを行うといったら、登壇者がまったくバラバラのところから9人も集まったことだ。もう一つは、本番当日までまったく各登壇者と打ち合わせをしていないのに、自然にイベントのメッセージが収斂されていったことだ。もちろんその裏では、各回のテーマとコンセプトをしっかりと提示し、各登壇者のプロフィールをかなり綿密に書いた、という工夫もあった。しかしそれでも、あんなに暖かい空間を、しかもオンラインで作り出すことができるとは思ってもいなかった。間違いなく2020年の、一つの成功体験だった。
もう一つのイベントは、前述の「いま、それぞれの居場所から」の成功に気を良くした私が、急いでこしらえたイベント「『自分を守る』と『自分で創る』」だった。2019年の出会いによって縁を紡いだ、ベストセラー『こども六法』の著者・山崎さんと、飯塚にある書店の若旦那・元野木さんと、私。実は3人ともSFC出身だったという、奇跡的な縁を、準備期間2週間程度で、リアル&オンラインイベントにまで昇華させてしまったのは、仕掛けた自分自身としても「どうかしている」と思うレベルである。飯塚で、『こども六法』を基軸に、著者と書店主と顧客、はたまた、教育研究家と教育産業従事者と教員、という組み合わせでトークができたのは、とても面白い経験になった。こんなプロデュースをしまくる仕事ができたら、どんだけ楽しいことか、と思うようになったのも、不思議ではなかろう。
とかく、2020年は、がんばった。いろんな経験をし、それらを成果につなげた感覚もある。手前味噌だが、教職経験2年目の所業では考えられないだろうし、サラリーマン経験があるからとはいえそれも年数的には6年程度のものである以上、それから考えても、社会人経験8年目という、他の人々とも十分勝負していけるような「名刺代わりの実践」を増やせた1年だった。
報われて然るべきじゃないか。でも、自分が望んだところでは、報われなかったのである。
自分の強みとミッションを踏まえて、文科省職員を目指した
ようやく本題である。
私が飯塚の地にいるのは、NPO法人Teach For Japanのフェローシッププログラムによるマッチングを受けたからだ。その任期は2年間。別にその2年を終えて教職に就き続けてもいいわけだし、事実私はフェローになった当初、2年間を終えたら実家に帰り、茨城県の正規教員になるつもりだった。ちなみに、フェローシッププログラムといえど、単に教育委員会とのマッチングを受けたに過ぎず、県の教育職一級の給与テーブルに乗っている教育公務員であり、私の給与は税金で支払われている。当然、1年ごとの更新による「常勤講師」なので、上述したような働きをどんだけしようと、給与は正規採用された教諭より低い。
少し本題から逸れたが、大好きだったマクロミルを飛び出し、長年「はったり」で言い続けた教員の職に就き、予想通りの苦難を迎えつつも「これは天職だ」といいながら、総じて楽しく仕事をしてきた。そのなかで、自分の中でより強くなっていった自分のミッションが
「学校と社会を、なめらかに」
だった。
新しい学習指導要領においても「社会に開かれた教育課程」という言葉が出てくる通り、学校教育が「社会」(とよばれるもの)との交わりのもとに営まれていくことは、もはや避けられないことであり、事実その時流にのって、さまざまな「新しい動き」が起こっているのは言うまでもない。しかし私はどこか、「社会が学校に侵食している」ような感覚を覚えることが多く、その一方で教員が様々なメディアで槍玉に挙げられるような印象(あくまで印象)を受けており、どうにも世間から「学校教員は世間知らず」という印象を抱かれているような感覚があって、憤っていた。ちなみにこの憤りは、学校現場に入る前に抱いていたものだった。
フルタイムの職員として学校現場に入ることにより、自分がそれ以前から感じていた「学校教育の魅力が世間に正しく伝わっていない」という印象、言い換えると、学校現場での営みが、すでに十分に社会に通用するものであるという認識は、より強まっていった。一方で、「社会に開かれた教育課程」の実現を真っ先にはたすべき教員に、その実現を果たすための余白とナレッジと経験が不足しているようにも思えた。しかしこれは構造の問題であり、決して教員自身が非難されるものではないし、事実頑張っている先生は頑張っているし、それは決してマイノリティではないという確信も得た。
そんな最中の、コロナ休校である。あの休校騒ぎは、多くの教員に、それぞれどういう考えを持ったかは置いておいて「なんとかしなきゃ」という感情を芽生えさせたに違いない。その結果、テクノロジーに明るかったり、新しいことにチャレンジしたいと考えたりする層は、オンライン授業やICTを活用した学習環境の構築に動く。ここに、経済産業省の推進する「未来の教室」事業、そして文科省が推進する「GIGAスクール」構想が加勢をする。EdTechを中心とする、教育ビジネス事業者も黙っちゃいない。とにかく、いろんなことが動き、いろんなうねりが起きた。結果、否応なく、日本のほぼ全ての公立教員は、学びのパラダイムシフトに直面することになったわけだ。
この状況において、我々教員、もう一言付け加えるならば、現場でチャレンジを推進する教員の背中を押したと、あくまでも私見ながらに思うのが、文部科学省という役所だ。いや、役所というよりも、そこで働く官僚たちだ。特に、時のGIGAスクール構想の担当課長がオンライン説明会で言い放った「これからは、使わないことに説明責任が発生する」という言葉に、一教員としての私は、非常に勇気づけられた。それまで、現場にいて通知文を目にするに、なかなかその根底の思想が伝わりにくい印象を持っていたあの役所が、実はこんなに熱いんだ、と思うと、「こんな状況でも、頑張っていける」という気持ちになれた。
2019年の夏、Facebookのタイムラインで、国家公務員の中途採用試験が行われていることを知った。教育系の知人が文部科学省のPostをタイムライン共有をしていた。これを見て、フェロー1年目の私はあることを決心する。2020年に、この試験を受け、文部科学省の扉を叩こう、と。思えば2010年、大学院進学を決めた私の腹のうちには、国家公務員の総合職試験を受けるということも視野に入っていたが、結局そうすることはしなかった。学部の友人が、学生時代の全てを投げ打って勉強に勤しんでいた姿を見て、あそこまではなれん、と思ったわけだ。それでも、教職課程や自身の研究で現場サイドの教育について触れながらも、他方では「熟議による教育政策形成」や「学級規模による学習効果の研究」といったマクロサイドな教育政策に触れていた私にとって、行政の仕事は「憧れ」だったわけだ。しかし、通常のルートであれば、31歳の私は時すでにチャンスを失っている。でも、その「憧れ」をワンチャン手にできるかもしれない。そうして、2019年の夏に情報を目にしてから、2020年の試験受験は私の中で決まったわけだ。
では、文部科学省職員になって、何か具体的にしたいことがあったのかというと、厳密に言うとそうでもないのが正直なところである。というのも、あの役所は、案外所掌範囲が広い分、ダイレクトに自分がしたいと思うことにすぐに携われるわけではなさそうだと思ったからだ。一方で私自身「学校と社会をなめらかに」というライフミッションを掲げているものの、それは具体的に何をすればそれが実現するのかということについては、大して考えていないし、それで戦術を狭めても面白みがないと思っている。さらに調べれば調べるほど、地方分権がなされている教育行政において、国家行政機関が行えることはそんなに多くないし、また権限も(法的には)そこまで強くないということもわかってきた。それでも、課題と情報が多く集まり、それに対して割と大きなインパクトを残せる施策を立案できるというのは、なんと言うか、ロマンであった。
思えば、今年1年間に起こしてきた様々なアクションも、別に最初からそれを目指していたわけでもないし、どちらかというと、その現場にいて感じることを起点に、「こうなったらおもろいな」というところから起案していったものがほとんどである。それは、実は過去の職務経験においても同じことであって、たとえばマクロミル時代の一番の思い入れ案件とも言えるGoodmillは、その実、それをしたくてあの会社に入ったわけではない。つまり自分は、その場における課題を自分なりに見通した上で企画を立ち上げていくことに長けている、その意味で「企画屋」であり、民間企業と学校現場の経験を踏まえながら、その「企画屋」の気質を生かすことができるフィールドとして、文部科学省という場所は最良なんじゃないか、と思っていたわけだ。
もちろん、全くもって「したいこと」がなかったわけではない。やはり自分が教員として働いたという経験が軸となり、自ずと「教員の資質能力の向上」というところに関心が向く。とくに、「社会に開かれた教育課程」の実現をしていくうえでは、今でこそ「学校地域支援コーディネーター」のような立場が活躍しているものの、実際に教育課程の実施を果たす教員自身がコーディネーター的な振る舞いができるようになる必要があり、しかしその立ち回りに求められるスキルや能力、あるいはコアの考え方は、どうにも学校現場の中だけでは、あるいは従来の学校教育の専門性向上の文脈では身に付きにくい。といいつつ、教科教育・生徒指導・学校運営・社会に開かれた教育課程の実現といった事柄を、全方位に渡って求めていくのはさすがにしんどいだろうから、教員組織の形成にポートフォリオ的な発想を効かせていく、そのための育成・採用・研修の制度に携わりたい、という考えはあった。
後述する「試験」では、それらの思いやこれまでの経験をフルにぶつけたつもりだ。そしてそれは、人事院が実施する「採用者名簿」に搭載されるための試験においては、きちんと成果がでた。しかし、官庁訪問では、その思いが届かなかった。曰く「他の係長級と比較して、即戦力として光るものが見出せない」とのことだった。
実際に試験を受けてみた顛末
国家公務員係長級(事務)経験者採用試験は、年に1回実施される試験。この試験に合格すると、有効期限1年間の、採用者名簿に搭載される。先に結果を言っておくが、私は11月21日から1年間有効である採用者名簿57名のうち、席次8番で搭載されている。全国で832人が受けた試験で上から8番目の位置。自慢したってバチは当たらないだろうし、その後の官庁訪問で落ちてしまったと言う結果も含めて、自慢しておかないと心がもたない。この試験結果でも、面接結果は伴わないのか。まぁそれほどまでに、国家機関で働くということは、一筋縄では行かないということだろう。あらためて、官僚たちを「とんでもねぇな」と思う。
事実、試験に向けては頑張って対策をした。一番自分の中で引っかかっていたのが、30問中9問が合格点である、一般教養試験だ。文章や資料の解釈から、数学の問題(ちなみに中学生の数学の知識があれば解けるけれど、そうはいっても難しい)や時事問題などを、だいたい2時間30分の間に30問解く。でも記述式ではなく5択なので、マークを塗りつぶせばどれかは当たるものだ。それでも、この試験に臨む上で一番ビビっていたのが、この一般教養試験だった。勉強は、参考書を買うことだけは7月末にしたのだが、その後いっさい参考書を開かないまま半月が過ぎた。なんとか週末に時間を作ろうと思っても、重い腰が上がらない。そのため、最後までヒヤヒヤだった。結果、蓋を開けたら30問中18点取れていた。合格点の倍。我ながら、あれはよくやった。
それでむしろ後から気づいたのだが、一次試験で重要視されていたのは、件の一般教養試験ではなく、むしろ経験論文試験という作文だった。この作文は、事前にマクロミル時代の同僚の手を借りながらキャリアの棚卸しを行い、その上で事前に作文にしたものを何人かの官僚の友人に見てもらった。いうて、人事の仕事を経験してきた人間であり、かつ自分のキャリアについては人一倍考え続けてきた方だと思っている分、作文は余裕だろと思っていたのだが、難点である「文が長い」ことが災いし、事前の原稿は当然覚えられる分量ではなかった。当日書きながら内容を精選したので、字の丁寧さは二の次になったが、結局なんとかクリアできた。
ところで、この試験の受験時期は、怒涛の学校行事ラッシュとバッティングしており、本当に忙しかった。一次試験が10月4日、この3日前に生徒会新役員の選挙があり、9月はその準備に追われた。と同時に、10月にある文化発表会に向けた、既存の生徒会役員との準備も同時並行で走らせていた。動画を作成するための原稿準備をしていたが、一次試験を終えた翌日に年休をいただき火曜日に出勤すると、生徒たちが作っていた原稿をボツにせざるを得ない状況になっていた。そして10月2週目には例の文化発表会、翌週には校内研修の研究授業と、小中合同の遠足、そして10月4週目には修学旅行。ほぼ毎週のように学校行事が立ちはだかる最中に一次試験を迎えたわけで、事実、その一次試験の結果が合格だったことを知ったのは、修学旅行1日目・広島に向かう最中のバスの中だった。
怒涛の学校行事を終えた11月に二次試験のために上京。面接試験と政策討議試験を受けたが、いわゆるグループディスカッションである政策討議試験では、お題に対して資料を参照しながら自身の立場の論拠を示すレジュメを作成し、その上でディスカッションに臨むスタイルだった。5人の大人たちが、マスクにフェイスシールド、さらに透明なついたてを挟んで車座になり、選挙制度について議論を深める30分。シュール以外のなにものでもなかった。面接も、特にキツいツッコミを受けることもなく終えることができた。ちなみに、二次試験を受けた次の週は期末テストで、息つく間も無く問題作成に勤しんだくらいには忙しかった。
それで、二次試験の結果が、面接B・政策討議Bという結果。前述のとおり、席次は8番。予想と異なっていたのが、昨年度は34人の合格者(各省庁採用予定数の合算値)に対して、今年度が57人だったことだ。増えたな、という印象だったが、とにかく合格したことには違いない。そしてここまでくれば、正直自分の文科省採用は固いと思っていた。即戦力としての採用を期待しているのであれば、私をして誰が即戦力となろうか、と思っていたし、民間の知見を政策に生かすという意図であれば、民間と現場のハイブリッド人材である自負を十分に持っていた。加えて、事前に職員訪問という形で何人かの職員の方にお会いする機会もいただき、その際の感触もよかった。
思えば、それが慢心だった。
あんまり詳しいことは言わない方がいいと思っているが、官庁訪問はオンラインで行われ、朝10時から7人と面談した。友人から「おそらく最後には人事の偉い人が出てくる」と言われていて、事実その偉い人との面談があったので「これはいける」と思ってしまったところもあった。しかしそうであろうとなかろうと、面接自体は自分自身、盛るでもなく飾るでもなく、正直に臨んだと思っている。そもそも自分自身が人事職にあって、採用面接をしていた側の人間だったわけで、どうせ取り繕ったところでバレることは分かっていたから、「正直という戦略」をとった。
結果的には、序盤は好感触であったものの、後半にかけては「ぐぬぬ」となる質問も多くあり、「あなたを採用するメリットが見えない」であるとか、論理矛盾を突かれるような問いであるとか、そういうものに窮してしまった。結果的に担当官から「官庁訪問はこれで終了です」という通告を受けるに至り、それでもなぜ至らなかったのかを聞いたところ出てきたワードが「他の係長級と比較して、即戦力として光るものが見出せない」だったわけだが、建前上は「合う合わないのマッチング」である面接の場において、一緒に働く可能性がある人から「一緒に働くイメージが湧かない」と言われたのと同義なのだから、もうこればかりはどうしようもない。
ということで、2020年11月24日に、私の挑戦は終わった。1ヶ月経って、日常は進んでいるが、まだ引きずっている。
キャリアの挫折を味わったら、先の見通しがフルリセットになった
欲しいと思って手を伸ばしたものが手に入らなかった経験は、思い出す限りそんなにない。その意味では、今回の一件は、初めてに近い挫折であった。いいところまで行っていただけに、ギリギリのところで梯子を外された感覚というか、来年の4月から虎ノ門で働いていることを、とても恥ずかしいながらかなり明確に妄想していただけに、ショックは大きかった。「官庁訪問終了です」という言葉のあとに頭に浮かんできたのは「さーて、この後どうしようか」だった。
というのも、2年でTFJフェローを終える前提をずっと持ってきたのだが、それは2016年に父が亡くなって以降、母と父方の祖母の嫁姑同居状態が続いていることが気がかりだったこともある。祖母に何かあった時のことを考えると、というのもさることながら、福岡に赴任する時に「2年で帰ってくるんでしょ」というセリフを母に言われたことを思い返すと、できるだけ関東にいた方がいいかな、という気持ちもあった。しかし、この国家公務員経験者採用以外に、自分からネクストキャリアについて動いていたわけではなかったので、いったんは頭の中が真っ白になった。
だが、勤務校の管理職は、今回の試験のことを応援してくれていた一方で、いてもらったら助かるというメッセージをずっと発し続けてくれていた。そら、冒頭に書いた1年間の軌跡を思えば、自分で言うのもなんだが、現任校の戦力になっている自負はある。仮に今回の結果が「教員として生きていきなさい」ということの思し召しなのであるとすれば、あと1年は常勤講師をすることになるわけで、そうなったときに、別の場所、それこそ地元で講師をするよりも、今の土地で講師を続ける方がいい。もちろん、講師の立場はある意味「空席を温める」仕事だから、来年度も同じ学校に勤務できるとは限らない。だが、せめても現任の自治体にいるほうが「リーズナブル」だ。
実は、もしこれで関東に引き上げてくることになったとしたら、教員キャリアとしては一つだけ心残りになりうることがあった。現任の自治体におけるGIGAスクール構想における機材配備が、令和2年度末になる、つまり実際の稼働は令和3年度からになる、という状況にある。ということは、あれだけ2020年に、ICTを活用した学習活動を自分なりに取り入れてきたのに、一人一台環境での学習活動を目にすることなく現場を離れることになるわけだった。それを思えばなお、教員を続けるとすれば、環境を変えない方がいいというのもあった。
官庁訪問がうまく進んだ暁には上京することになると聞いていたので、勇足で先にその日程の年休取得と上京旅程をおさえてしまっていたので、キャンセルするにもお金がかかるなと思い、11月の末に家族会議をしに実家に帰った。母親はそこで開口一発「今このタイミングで動くのは避けた方がいい」と言った。心配をしていた相手が、今は別に帰ってこなくていいと言うんだから、というのがひと押しになった。福岡に戻ってすぐ、講師登録の継続の書類を書いて、今に至っている。
では来年度が終わったら、つまり1年後はどうするんだ、という話だが、全く見通しが立っていない。教員なのか、というところも含めて、である。少なくともあと1年は見通しが立っているが、その後は、本当に、何もない。来年も受ければいいんじゃないか、という人もいるかもしれないが、仮に人事院実施試験まで突破できたとしても、すでに一度官庁訪問で「いらん」と言われた人材が、来年受けたら受かるとは思えない。教員としての経験値は1年分アップデートできるかもしれないが、民間時代の経験はもうアップデートされない。となると、来年度も受験する、というのは得策ではない気がする。
ならば教員採用試験か、とも思うのだが、ものすごく正直になことを言うと、終身雇用先として教員になることが、これまでの自分の経験や、自分の持つ資質に照らして、自分自身をさらにアップデートし続けられる環境だといえるのかという点で、どうにもしっくりきていない部分がある。これが、しばらく「学校と社会をなめらかに」とか、「学校の努力をもっと社会が認めるべき」とか言っている私の思考の中に存在するのだから、自分で自分にツッコミを入れたいところである。「お前がそれを言うなよ」と。
「官庁訪問終了」の傷心を引きずりながら、11月末に帰省した際に、今回の受験を支えてくれた国家公務員の友人と感染対策をしながら食事を共にし、話を聞いてもらいつつ、彼は先人の叡智を引用しつつ様々な捉え方を示してくれた。そのなかでも、ネットワークセオリーにおける「弱いつながりの強さ」を引用しながら、違ったコミュニティのノードどうしを繋げる役割にある人間は強く、そうした人は人間的に輝いているからこそ新たなノードを増やしていける、と言ってくれた。彼が僕にくれた一言は、自分に癒しを与えてくれた。
「お前は、肩書きがなくても、十分輝いている」
それは、これまでの私の行動を見ていてくれた彼だからこそ言ってもらえた一言だったし、自分にとって、こうして私のキャリアも含めてサポートしてくれる人に恵まれていることは、本当に嬉しいこと・有難いことである。しかし同時に思ったのは、自分が輝き続けるとともに、ネットワークのノードをメンテナンスし続けるにはどうしたらいいだろうか、と。言い換えれば、仮に教員であり続けるにしても、いわゆる「社会」の側との関係性を、どう広げ・アプデートしていくかを考えねば、ということが、頭に残っていた。
それでも、来年1年でやりたいことが見つかった
これまでの経験と人脈を生かしながら、おもしろく仕事をしていきたい。それによって自分を顕示していきたい。結局のところ、私の欲はそんなところであり、その欲が故のチャレンジだったわけだ。10月に別件で上京した際に、前職の執行役員に会う機会があり、今回のチャレンジのことを伝えたら「で、何がしたいん?」と言われたので「結局は見栄ですね」と伝えたら「そんなこったろうと思った」と言われた。結局はそんなところでしかなく、なので結局、「さて、あと1年はいまの場所にいるとはいえ、その先はどうしようか」と思案してしまっている状況、言い換えると、自分の人生に腹を括れていないのは、この、ある種の醜い欲のせいである。
知人の教員には、現職・プロパーでありながら、学校外とのつながりをアップデートし続けている人がいて、中には夏休みを使って(といってもそこで年次有給休暇を使って、である)民間企業にインターン(もちろん無償)に行った人がいる。当然、教育公務員である以上、所得を得るような副業はできない。しかし、ビジネスサイドに関わるような活動を、自分の過去の経験を生かしながら、自分の余暇の時間を使ってしていければ、おそらく「ノードのアップデート」も叶うんじゃないか。そんなことを、「官庁訪問終了」の48時間後には考え始めていた。
そんな時にふっと思いついたことがあった。この思いつきが、しばらく先のキャリアについては全く見通しを持っていないけれど、しかし向こう1年、自分が今の場で教員を続けたいと思う原動力になった。当然、繰り返すが常勤講師の人事においては、現任校に来年も居られる保証はないので、以下に書くことはすべて「たられば」でしかないが、それでも、次の1年の「あたらなチャレンジ」として歩みを進めたいと思っていることである。
私は2021年「人事44人と中学生の2on1セッション」を、どうしてもやりたい。
自分が、なりたいと思ったものになれなかった。人生で初めてに近いこの経験をして、頭に浮かんだのは、今の生徒たちの中で、すでに「〇〇になりたい」という目標を持っている生徒たちである。おそらく彼らは「看護師」や「保育士」といった、その志望を叶えられるだろうと思う。しかしもし、何かがあってその志望する職業につけない現実が訪れるとしたら。その時、自分のキャリアに対して、シフトを図る思考を辿ることができるだろうか。しかしその一方で、おそらく多数の生徒たちは、将来がどうこうとか現実味を持って考えられていないだろうし、その状況下でまもなく進路選択を迫られる。ほとんどが高校進学をすることになるが、その決定軸において、現在の自分の学力が大きなパイを占めることは言うまでもなく、それがある種の「消極的進路選択」を呼んでしまいかねない、と思い至った。
思えば、総合的な学習の時間の導入以降、キャリア教育は全国的に取り組まれ、「将来何をしたいか」を基軸にした進路学習の実践が積み重ねられてきたように思う。そのこと自体は画期的なことだったはずだし、自分の将来のことを考えることは重要だとは思う。しかし、職業を基軸にしたキャリア教育には、正直いささか違和感を覚える。「何をしたいか」を考えることで前に進める人もいれば、その思考が苦手な人もいるし、その職業に就けない場合を考えた時の「次の選択肢」を持つ可能性を摘み取りかねない。その一方で、「将来の夢=職業」を基軸にした進路学習は、学習者にとってのイメージのしやすさや、あるいは教える側にとっての教えやすさという点で、合理的であることも確かだ。そのため、多くの「キャリア教育」において、ロールモデルとしての社会人との出会いの場の創出というのがなされてきた。
ロールモデルとしての社会人と出会うことで、可能性の幅が広がるということは、とても大事なことだと思う。その一方で、進路決定を目の前にした彼らにとって、ロールモデルを知ること以上に大事のように思うのは、大人とコミュニケーションをするという経験、あるいは、言語化しきれていない「日々のモヤモヤ」を相手に伝えられるようになることなのではないかと、生徒たちと日々向き合う中で思うようになってきた。自分でも自分のことをよく分かっていないなかで、将来のことを決めろと迫られる15歳の1年間を思うと、かつての15歳たちは「そんなに考えてなかった」と口を揃えるだろうが、この「不確実」が叫ばれる時代において、無策でキャリア選択に臨ませるのは、さすがに酷だと思った。必要なのは、キャリアを考える基軸を「今」に置くにせよ「未来」に置くにせよ、自分で決めたという納得感と、それを言語化できることではないかと思う。
それを促せる相手として「人事」と巡り会わせたい。それは、1回だけでは意味がない。現段階での構想では5回なのだが、とにかく通年で継続的なコミュニケーションをしないと意味がない。奇しくも、来年には「一人1台PC」が使えるようになるからこそ、リアルではなくオンラインで場を提供できる。うまくするれば、教員がログを確認できるというリスクヘッジを講じた上での、オンラインセッション以外のテキストコミュニケーションの場を設計できるかもしれない。オンラインセッションでは、生徒が「今・過去・未来」において興味があったり好きだったりすること、あるいは高校進学において考えたり悩んだりしていることが話されるイメージだ。おそらくそこでは、友達にも・教員にも・親にも話せない、利害関係のない相手だからこそ話せるようなことが表出するかもしれないし、あるいは親や教員に言われると「しんどい」と感じることも、利害関係のない相手からならば聞ける、ということもあるかもしれない。
「でもそれであれば、人事に限定する必要はないのでは」と思う人もいるかもしれないが、そこはあえて「人事」である必要があると考えている。その一つの理由は、一般の社会人に比して、人のキャリアに関わる上でのベースとなる知識やコミュニケーション技術を持っているから、というのがある。しかしそれ以上に重視したい理由は、むしろ人事の側が、対社会人のコミュニケーションと比べても明らかに難しさのある思春期中学生とのやりとりをすることで、「キャリアを支援するとはどういうことか」を考える機会になるという意味で、学びが深いはずだからだ。言い換えれば、生徒たちが人事たちとのコミュニケーションを通じて自分について見つめる学びを得る代わりに、人事たちは生徒たちとのコミュニケーションを通じて自分のコミュニケーションスタイルのあり方を見つめ直す機会になるはずだ。
ちょうど、官庁訪問の前日に、経団連が初等中等教育に対して提言を行なったのだが、その原典を見てもなお、「では経済界は教育現場に対して何をしてくれるのか」というのが見通しきれなかった。「人材育成の気概を持て」という主張が書いてあったが、元人事として思うのは、では本当に各企業は「人材育成の気概」を持っているのだろうか、という問いだった。それが頭にひっかかっていたこともあって、「民間企業の人事が、中学生のキャリア支援をしたら、むしろそのコミュニケーションの難しさから、学びを得ることになるんじゃないか」という考えに至った。事実私が、生徒たちとのコミュニケーションに悩み、それによって自己内省が促された過去があった分、それと同じように、自己内省や「キャリア」の在り方など、その後の人事としての職能に影響を及ぼせるほどの機会になるだろうという、自負にも似た予想がある。
ある人にこの構想を話したら、「これって、ダイバーシティマネジメントを学ぶ場になる可能性があるよね」と言われた。一方で別の人からは、「人事の中には、無自覚に学歴や『いい会社』思想を押し付けてしまう人もいるかもしれない」という懸念の声ももらった。なにより、これは本当に生徒たちのためになるのかということを考えながら、しっかりと設計・運用しないと絶対にしくじるプロジェクトになりそうだ。それでもチャレンジをしたいのは、私なりに「学校から社会をギャフンと言わせる」ことをしたいという動機が強い。「学校教育が大変だから、サポートをしてください、だから学校教育を社会に開いていきます」じゃない。むしろ、「社会」と呼ばれる側を、学校から刺激していくことで、子どもたちのための学びの機会を、いつの間にか関与している全ての人にとっての学びの機会にしていくこと。それがおそらく、私の目指す「学校と社会をなめらかに」した状態の究極系な気がしている。
おわりに
全然まとまりを得ないまま、相変わらずの長文となったので、そろそろ閉じようと思っているが、この一年で分かったことは、自分の「企画屋」としての性分(あえて「強み」とは言わない)と、欲にまみれたキャリア観(そのくせ具体的に何がしたいというのもなければオプションの用意もない)、そして自分の挫折すらも次なるプロジェクトの着想に使ってしまうというしたたかさだった。そのことに気づく上でも、「求めたのに手に入らない」という、このキャリアの挫折は、とても意味があるものだったと感じている。
繰り返すが、向こう1年の野心は見えたが、その先の見通しは本当に何も持っていない。でもおそらく、何も考えない方が、かえっていいのかもしれない。強く求めない方が、かえって幸せなのかもしれない。見る人が見ると「はぁ?」となるかもしれないが、大学院の終わりにもらった「加藤賞」だって、一つの結果ではあるが、別にそれが欲しくて研究にとりくできたわけではない。自分で言うのもなんだが、どんな状況においても、その場において「おもしろい」と感じることを、私は取り組んでいくだけなんだろうと思う。そういう機会は、きっと機会の方からやってくるんだ。
もう別に、なんだっていいんだから、淡々とただ、やることをやっていこう。2021年は、そんな1年になるんだと思う。しかしそうは言っても、生き方に迷子である。何かしらの一筋の光を、来年は拝みたいものだ。
末筆ながら、今年1年お世話になった皆様、とくにこの記事で書いた国家公務員経験者採用試験において支えてくださった皆様に、心からの感謝を。来年もどうぞよろしくお願いします。
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