先日、とある基礎自治体の教育委員会から、Teach For Japanの7期フェローの肩書きで、キャリア教育について講演の機会をいただいた。今回機会をいただいたことで、少なくとも私は、たかだか3年間しかなかった現場経験のなかでも、好き勝手やらせてもらったさまざまな「再現不可能」ともいうべき実践たちと、その根底にある考え方を、つなげて整理できた感覚があった。とてももったいない気がするので、その時の資料をもとに、あらためて気が向くままに文字に起こしたら案の定とてつもない文字数になったので、分割しておいた。
※ちなみに2025年11月に①〜③を書き上げ、その後半年ほったらかしてしまい、ようやっと④を2026年のGWに書くことができた。
目次
- ①プロジェクトという生き方、探究というキャリア : 私の「誇らしい過去」から
- ②「探究」の5つの要諦 : 対象への探究が、自分自身の探究に、つながり・広がる過程
- ③「キャリア」をめぐる見方・考え方 : 「よりよい在り方」につながる選択と物語
- ④「コンセプト」をたてる:キャリア教育という「物語」を仕立て学びを編み直す指針として
★いまここ↑
前の章では、アントニオ猪木さんがリング上で語る詩「道」やスガシカオさんのProgressの歌詞から、計画された偶発性理論、Well-beingの4因子といった学術モデル、ビジネス界で多用されるWii/Can/Msutモデルや山田ズーニーさんの「考えるシート」から引用したキャリアモデル、さらには文科省が示すキャリア教育の基礎的・汎用的能力といった、私の考え方に影響を及ぼしたことがらを引用していった。それらの引用によって導いたのは、キャリアを考える営みが探究的であるということ、そしてその本質が、選択の自己決定、あるいは物語の辻褄合わせである、ということだ。どうしても「未来からの逆算」に終始しがちなキャリア教育において、実は「過去からの積算」による「いまここの自分の理解」の視点も欠かせない、いやそれどころか、その視点の方がよっぽど大事だ、ということを紐解いたとも言える。
では、その概念をベースにしたところで、どう実践に繋げるのか、というのが問題なわけで、この章では「概念」を「実践」にどう落とし込むかについて、私の実践を例に書き出していこうと思う。そのキーとなる概念が「コンセプト」だ。
「探究とキャリア」についての長い思索の旅路 – ③「キャリア」をめぐる見方・考え方 : 「よりよい在り方」につながる選択と物語
ところで、私は「人生のコンセプト」と同義とも言える、自分自身の Vision / Mission / Value を置いている。通常、VMVと略されるそれらは事業を行う組織が持つものであるが、私は個人がそれを持ってもいいと思っていて、かつそれは教員になる直前に策定した。考案してからしばらく経っているが、いまだに自分の核をなしているといっても過言ではない。その詳細は以下の記事に譲るが、その中からVisionとValueを引用するのでひとまず目に入れてみてほしい。
Vision
この生きづらい世の中で
勇気と気づきが
まだ見ぬ明日を切り拓く
Value
わたしとは違うあなたと
一緒にうまいことやって
誰かに役立つことをする
これらの文言は、前の章で書いた、探究とキャリア教育の結節点とも言える
だれかといっしょに
なにかをすることで
気づいた(築いた)自分を
より良い明日につなげる
ということばと、まんま一致していることがわかる。プロジェクトとか探究とかキャリア教育とか、そういったものは、私そのものと深く繋がっているんだということを、これを書いている時点で改めて気付かされた。
私自身の「人生のコンセプト」が強烈にあるがゆえに、それが実践に対して影響を与えることも言うまでもない。たかだか3年間の経験で、しかも一丁目一番地と言える教科指導や生徒指導においては悔いも不足も残る実力だったが、それでも自分なりの「活路」になっていた総合的な学習の時間を中心とするキャリア教育の実践や、生徒会顧問教師としての取り組みは、自分自身が大切にしている在り方(being)や、キャリア・探究に対する思想に裏打ちされた「コンセプト」を、それぞれに持たせていたものだったと思う。
先に述べておくが、私が「心血を注いだ」というレベルで、もはや「作品」とすら呼びたい、それら「活路を見出した実践たち」は、他方では、再現性を伴いにくい、特殊性の高い事例とも言える。まんま同じフォーマットで、持続させようとすることは不可能に近いし、そしてそうであることは、ナショナルカリキュラムとして標準形が提示されている状況下で社会インフラとしてユニバーサルに提供される、つまりどこにいってもいつであっても同じ水準の教育を受けることができるという公教育のあるべき論の真逆を行っている。
そのことに対する懸念や批判があることが分かった上で、大事なのは実践のhowではなく、その背後にあるwhyを、実践者自身が探究しながら形に落とし込んでいくことだ、と思っている。さらに加えて言えば、私が行ってきた以下の実践たちは、その詳細は実践を記録した各記事に譲ったり、あるいはネットに堂々と書き込むには憚られるのでそもそも書かなかったりするが、いずれにせよその当時の生徒の実態と、生徒や学校を取り巻く様々なニーズをベースに構築したもので、決して「面白そうだからやる」と思いつきでやったものではない。そう、ちゃんと「コンセプト」を置いたのだ。
たとえば、以下の記事から連作で実践記録を記している、教員初年度に経験したPepperプログラミング教育は、明確なコンセプトコピーを置いたものではなかったが、一連の学習活動の設計の背景には、
- わたしの困りごとが社会課題につながる
- 社会と未来や自分でつくり・動かすことができる
- 最先端を使いこなす側にまわる
- 自分の得意を活かして、みんなで問題を解決できる
といった思想があった。
その証拠に、取り組みの目標には、以下の4つの要素を入れ込んでいた。
- 日常の生活を基点に社会の課題を発見し、その解決に向けた考察と実践に取り組む経験を持つ
- 計画・実装・失敗・修正のプロセスを繰り返すことが、よりのぞましい成果につながることを学ぶ
- 問題発見、企画立案、実装結果、考察、という一連の流れを他者に分かりやすく説明できるようになる
- Pepperの作動に必要となる、プログラム・シナリオ・画面画像等を通じて、自己表現の機会を得る
ただこの実践自体は、勤務していた自治体の教育施策としてPepperを用いたプログラミング教育をほぼ全ての学校が実施「しなくてはならない」状態であり、その担当者に私が「たまたまアサインされた」(しかも英語科の教員なのに)という、偶発性(というか無茶振り)によるものだったことを考えると、所与として存在する、あるいは継続的に行われている実践も、「コンセプト」を置く、つまりwhyを考えることによって、いかようにも血を通わすことができると思う。
たとえば、以下の記事から連作で実践記録を書こうと思って途中で断念した、2年目に実践した「農業ビジネス体験」は、その一連の学習のタイトルを
ふるさととしごとをつくる
とした。
わりとこだわって考えたタイトルだったのだが、「ふるさと【で】」ではなく「ふるさと【と】」としたのは、当時の中学2年生の、それまでの総合的な学習の時間の三本柱を、地域軸と自分軸で整理をした、そこに端を発している。
画像にあるように、職場体験学習で地域の魅力と可能性を知り、修学旅行で自分たちの土地を相対化する視点を持ち、その上でこの地域に自分をどう位置づけ今後を生きるかを考える、という地域軸と、働くことの大変さを実感し、自分で企画し行動する愉しさを覚え、その上で自分の未来の一歩目を自己選択する、という自分軸を定めた、そこに職場体験を位置付けている。さらにその背後には、校区内を見渡す限り、お世辞にも「積極的にその土地に残る選択肢」が見えやすいとは言えないエリアにおいて、それでも「地域の中の学校」という役割を果たす上でも、「ふるさと」は単なるフィールドではなく、自分自身と、関わる地域とが、創発的に発展していく、別言すれば、地域をつくる主体は自分自身だ、という意識で生きていくことを学んでほしい、という思いがあった。
そうして考えていた、単なる職場体験から、地域で働く「仕事人」の想いを取材してポスターを制作するという、取材型職場体験の構想は、コロナ禍で一気に吹っ飛んだ。そして気付かぬうちに、学校長が地域団体に掛け合って地域の空き家の裏庭が畑として開墾され、そこで農業体験をすることがほぼ既定路線になっていた。これもある意味、偶発性(というか無茶振り)だった。だからこそ中学生らしい学習活動として、マーケティング的発想によるビジネスプラン企画を組み入れた。つまり
- ふるさととしごと:校区らしい産業・仕事をする人々の魅力と情熱に触れる
- しごとをつくる :自分で仕事を作り出す発想を、この土地で生きる積極的な理由に昇華する
ということを掛け合わせたコンセプトを置いたわけだ。
ここまで、そもそも「コンセプト」とは何か、定義や概念を一切説明してこなかった。もっといえば、「コンセプト」を定義的に説明する文言は無いように思えている(余談だが、定義は書かれていないものの『人生にコンセプトを』という新書はかなりいい本なので読んでもらいたい)。
ただおそらくなんとなくわかることとして、「コンセプト」とはつまり、
目の前の課題を解決して、
よりよい価値をもたらすために、
大切にしたいこと
と言えそうだ。言い換えれば
誰の、 どんな課題を、
何をすることで、
どこまで持っていくのか
を明文化したものがコンセプトであり、だからこそ、商品開発・事業開発・組織開発といった「〇〇開発」の文脈で、「困ったら戻ってくる拠り所みたいなもの」として取り扱われることが多いわけだ。
私の実践で、ど直球「コンセプトデザイン」をしたのが、以下の記事にある「生徒会コンセプト策定」だ。
このコンセプト策定においては、そのプロセスにおいて、生徒会役員としての各生徒自身の「なぜ役員になったか」という思いや、生徒・学校・地域のGood&More・現状と理想の言語化を図り、そこからワーディングを行なった。つまり、自分自身や周囲の状況を見通した上で、課題の発見と理想状態の仮定をし、その課題と理想を仲立つものとしてコンセプトを置いているのだ。だからこそ、耳障りのいいスローガン以上に、生徒会活動の意思決定の基軸になっただけでなく、役員一人ひとりの活動の指針にもなったのだった。
このコンセプト策定において用いた図は、実はとてもシンプルな構造で、私はこれを「現状・理想・施策モデル」と呼んでいるが、あまたの「仕事」や「プロジェクト」に共通する本質性がここにあると思っている。中学2・3年生でも考えて策定することができるのだから、いわんや大人でもプロセス自体は踏むことができるはずだ。一方で、芯をくったコンセプトを策定することは、プロだって難しいという面があるのも事実だ。だから大事になるのは、芯をくった筋のいいコンセプトを「仕上げること」ではなく、コンセプトを立てるプロセスを踏むことで「現状・理想・施策」を考える視座を持つことだと思っている。
ところでこの章は、「キャリア教育の実践をどう組み立てるのか」を考えるヒントとして「コンセプト」がある、ということを示すために記してきた。その要諦はつまるところ、
- 児童・生徒と学校、それらを取り巻く環境から、現状の課題と未来の理想を考える
- 現状と理想を仲立ちする「施策」として、実践に通じるコンセプトを考える
という2点に集約される。そしてそれは、何も私が独自にやり始めた話ではなく、そもそも国立教育政策研究所が2011年にまとめた資料でも、以下のように「学校オリジナルのキャリア教育の『物語』を創ろう」と示している。
無理矢理なこじつけとも言えるかもしれないが、前の章で私は「キャリア」を「自分の物語の辻褄合わせ」といった。辻褄合わせ、ということばはやや後ろ向きな印象を与えるが、それでもなお「キャリア」は「探究」される「物語」であるとしたとき、学校において行われる「キャリア教育」もまた、各学校をフィールドに「探究」される「物語」であると言えるのかもしれない。上の図で言われている4つのステップ、つまり、実態把握・目標設定・課題設定・指導計画、のステップは、まさしくコンセプトデザインであり、それは言い換えれば「物語の中核をなすテーマ」だとも言えるのだ。そう考えると、ユニバーサルサービスとしての学校教育が担保すべき再現性よりも、実は「児童・生徒と、学校、そして地域の実態」に基づく個別の実践構築のほうが、優先度が高いのではないか、と思う。それでもなお「コンセプトを立てる」という営みが、再現性と均質性(質の担保)を可能にするだろう。
私にとって、自分の Vision / Mission / Value のステートメント、いいかえればコンセプトは、自分が今後の方向性に迷った時に立ち戻るものであると同時に、自分のこれまでの人生を「物語」として再構築する上での編集方針でもある。これは、各学校で取り組まれるキャリア教育においても同じことが言える。つまり、実践そのものを推進する上で迷った時に立ち戻るときのものであると同時に、その「物語」の主人公たる児童・生徒たちの進化・深化・変化の価値づけの指針になるものだ。国立教育政策研究所の資料においても、上の画像の続きの部分で「主人公たちの変化をとらえよう」と書かれているページで評価の話がされている。
現に、先に紹介した生徒会コンセプトにおいては、記事を読んでもらえればわかるが、定めたコンセプトに従って活動の意思決定を図ったシーンがあった。このこと自体がある種の「物語」であり、その意思決定を役員たち自身が図ったという事実自体が、価値ある成長だと言える。コンセプトを立て、それに基づく「物語」を描いたり見直したりするのは、何も教員だけの役割ではなく、むしろ児童・生徒たちと共創してしていったっていいはずなんだ。
「評価」の話が出たついでに、もう一つエピソードを書いておきたい。教員2年目の時に実施した「農業ビジネス体験」学習では、わりと指導計画も綿密に組み立て、農業体験だけでなくビジネスプランプレゼン大会もしっかり取り組んだが、まさかの、学習の振り返りのための「まとめの発問」がまったく思い浮かばなかった。というか、あれやこれやと考えた結果、考えすぎて問が思い浮かばなかったのだ。その時、同僚だった主幹教諭(筑波の教職員研修センターでの夏季研修に参加された方)が、シンプルな一言を放ってくれたのが印象深かった。
「何ができるようになったか」じゃない?
あれこれ考えていたことが、この一言に集約された。体験的で探究的な学びをした末に、何ができるようになったか。これこそが、「だれかといっしょに、なにかをすることで、気づいた(築いた)自分を、より良い明日につなげる」という、キャリア教育と探究的な学びの共通項にあるコアであり、そしてそれは「Canの解放」にもつながる。結果的に、「農業ビジネス体験」学習のまとめのワークシートは、農業体験・ビジネス学習のそれぞれで印象に残っていることを書き出した上で、「何ができるようになったか」、そして「将来『しごとをつくる』うえで大事になるのはどんなことだと思うか」という問いにした。
発達段階で目標とすべき状態に対して今どのあたりにいるのかを基準に照らして判断するAssessmentとしての評価ではなく、学習活動の過程においてどんなことが起き、それによってそれぞれにどんな進化・深化・変化が生じたかを捉え、それを価値あるものとして見出すEvaluationとしての評価こそが、探究的な学びやキャリア教育においては大事になると思っている。この話をしだすとそれだけでもまた長くなるので割愛するが、このEvaluationとしての評価の姿勢こそ、学びを「物語」として再編集する営みであり、そこにおいてこそ「コンセプト」が大事なることは言うまでも無い。余談だが、Evaluateは、e-=外へ+value=価値+ate=する、つまり価値を外化させるという意味合いを持つ。全ての学びに価値がある、という前提の、この単語を「評価」の訳語に充てるのが好きだ。
ここまで、私の実践と、その実践を構築する上で大切にしてきた「コンセプト」の説明をしながら、キャリア教育という「物語」を仕立てる上でも、学びを編み直す上でも、なにはともあれ「コンセプト」が大事になる、ということを示してきた。その「コンセプト」のつくり方は、まさしく「現状・理想・施策」モデルでシンプルに説明ができることも見てきたし、現状も理想も、児童・生徒や学校を取り巻く状況によって変わることを踏まえれば、各学校の個別性が生じることも述べてきた。さらについでに、学びをどう評価するかについても、コンセプトをベースに置いた上で、学びに価値づけをする姿勢が大事だ、とも述べてきた。
しかしそれでもまだ、私がやってきた探究的な学び・キャリア教育の実践を説明するうえでは、一つの要素を欠いている。それが、「教員自身が探究する熱の伝播」という要素だ。それにまだ、ど直球の「キャリア教育」の実践でもある「社会人と中学生の2on1:マイメンター」の説明をしていない。またそもそも、キャリア教育のhowを、whyとの関連で述べるということができていないので、章を分けることにした。




