スペシャルオリンピックス

スポーツの場面では多くの感動が生まれます。
同時に、頑張っているアスリートたちの姿は、僕らに勇気を与えてくれます。
昨年のオリンピックでも、多くのアスリートが感動を与えてくれました。
夏の高校野球の応援に行きましたが、感動しました。
何もオリンピックばかりがスポーツ大会ではありませんが、オリンピックという大会自体に大きな意味があり、多くの選手が金メダルを目指し頑張っているからこそ人々は感動するのではないのでしょうか。

さてオリンピックといえばオリンピック開催後に行われるのが体に障害を持つ人の大会、パラリンピックが有名ですね。
昨年のアテネでも、日本人アスリートの活躍が目立ちました。
で、みなさんはスペシャルオリンピックスをご存知でしょうか。
とっくに知っていた方もいるでしょうが、知的発達障害を持つ人のために、トレーニングの場、成果を発揮する場である大会を年間を通して提供する国際的な活動のことです。
第3のオリンピックと言っても過言ではありません。

今月の26日から3月5日にかけて長野オリンピックの開場を利用してスペシャルオリンピックス冬季世界大会が開催されます。
今回開催される冬季世界大会が、初めてアジアで開催されるスペシャルオリンピックスになります。
約80か国から約2,500人のアスリートが参加予定うち、日本選手団は150人で、今回の日本選手団の人数は、過去最高になります。
今回は7つの競技が開催される予定です。

面白いのは、ディビジョニングという独自のルール。
予選・決勝の順で競技が行われるのは当たり前ですが、この予選は決勝に進出できる人を選ぶためのものではありません。
予選の結果をもとに、その結果が同程度の人を集めてその中で競技を行います。
つまり、予選でクラス分けを行い、決勝ではそのクラスの中で競い合うというシステムです。
さらに面白いのは、あくまで個人を尊重するということ。
そのため、国家間でのメダル数を競うという事はなく、表彰においても、国旗掲揚、国歌演奏もありません。
さらに、出場選手の全てに表彰があるというのです。

勇気をだして で注目したいのは大会のときに読み上げられる選手宣誓。
日本語バージョンを引用して掲載します。
わたくしたちは、精一杯力を出して勝利をめざします。
たとえ勝てなくても、がんばる勇気を与えてください。
きっと今回の大会では多くのアスリートたちが勇気を与えてくれる事でしょう。

スペシャルオリンピックス日本
2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会ー長野

リーダーというもの

最初の方は愚痴になっています。この記事で、さらに僕は立場を失うかもしれない。けれど、何かのきっかけを与える事は必要ですから、発言する勇気を行使します。

最近僕の所属するクラスの和に疑問を抱く事があります。どんなクラスであるかは、僕の姉妹ブログを見てもらえればわかるのですが、僕のクラスは卒業まではなれる事はありませんから、必然的に仲が良くていいはずです。
ですが最近は、クラスレクの企画段階の参加率が悪く、クラスメイトの中に、乗り気な人と、乗り気ではない人ができてしまうのです。
それも高校生という年代からくるものなのでしょうか。

僕が一番苦労していると思うのは、そのクラスをまとめる中央委員と呼ばれるまとめ役の人間。クラス全体にそのレクレーションの話を出すのはものすごく勇気のいる事だと思うのです。
なぜならば、さっき言ったように、企画段階では、全員に諮っても、手が挙がらない人がいるわけで。僕自身前期の中央委員をやっているだけあって、その気持ちはよくわかるのです。
まとまらないクラスをまとめる立場としては、不甲斐なさを感じているかもしれません。そこにあえて声をかける事はやはり勇気のいる事だと思うのです。

前にたって何かを進めるには、勇気がとてもいると思うのです。自分がやる!と手を上げる事を初めとして、人に何か指示を出したりする事など、すべての人がすんなりとできる事ではありません。
失敗したときの責任はすべて負わなければならない。恐怖と常に戦いながらやっていくのがリーダーという者だと思うのです。
大統領や、首相がいい例です。多くの人からたたかれても、自分を失わない強さは、人の役に立つ行動を起こしたいという勇気から起こるのではないのでしょうか。
リーダーに必要な物は素質ではない。心だ。勇気だ。
前に立つ事を好む僕は、このことを自分にいい聞かせたいと思います。

クルド人親子強制送還

4、5日前の話になってしまいますが、法務省入国管理局はトルコ国籍のクルド人のアハメット・カザンキランさんとその息子をを本国へ強制送還しました。

カザンキランさんはトルコ本国で政府に批判的デモに参加したものの、身の危険を感じ来日、その後家族らを呼び難民認定をしたものの認められず、裁判にかけ、一審は勝訴、二審は敗訴となった。彼ら家族は、渋谷の国際連合大学ビル前に座り込みをし、難民認定を求めた。カザンキランさんはその座り込みのときガソリンを体にまいて、焼身自殺を図り、難民認定を訴えた。

彼らには勇気がある。僕はそう思います。
「クルド人迫害を恐れて逃げたんじゃないか、勇気なんてあるものか」と一度は思いましたが、それは違う。難民認定されず、いつ強制送還されるか分からないのにも関わらず、座り込みを続けたその勇気は、計り知れないものがあると思うのです。

その勇気も無駄になったのです。
実は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民認定をしているのです。それがなぜ。なぜ強制送還なのでしょうか。
「日本政府の難民認定基準は高く、さらにクルド人に関してはもっと高い」と彼らの弁護団は語ります。
ぼくは何にも分かっていません。トルコとの国交が原因なのか、それともクルド人差別なのか、僕には背後にどういう関係があるかは知りません。
ただ、国連が難民と認めた外国人を日本が受け入れないとすれば、国連の意義が薄れたなと思わざるを得ません。
もっと国連は力を持つべきなのです。多くの国では、平和を叫ぶためには大変な勇気を必要とする国だってあるのに、それが比較的に容易にでき、さらに影響力をもつ国連が強くなければいけないと思うのです。

話がそれました。
実はカザンキランさんの二人の娘は埼玉の定時制高校に通っているそうです。
「どうしてこれほどひどい扱いをするのか。」娘は、強制送還の事実を、難民認定を求める会見の場で知り、こう語りました。
さらに娘の高校の教諭は、署名を6万人分集めたので、こう語りました。「6万人じゃだめなんですか、100万人ならいいんですか」と、泣きながら語りました。
署名活動にでた勇気は大きなものがあったのに、その勇気を日本政府は認めなかった。教諭はさらに、「この娘たちが日本を悪い目で見ないか」とも語りました。

強制送還された二人が、本国での迫害に負けず生きてほしいと思います。
ここでわめいても意味無いでしょうが、日本政府には、難民認定をすることを望みます。

参考文献:Yahoo!ニュース 社会ニュース – 1月18日(火)20時26分

被災地での勇気ー1.17に寄せて

3000人以上の命が失われた十年前の今日。
小学1年生の僕が、テレビで見た映像からでは、何が起こっているかはまったく理解できませんでした。NHKのアンケートによれば、街の復興は震災前の80%、心の復興は、50%だという声が多かったのでした。
また、いまだに地震への恐怖心は絶えず、「あの時ああしていればあの人は助かったのに」という自責の念に駆られる遺族も多いのが現状です。

多くのボランティアや、消防、警察、自衛隊の人々が、被災者を助けました。
何らかの被害にあうことも恐れずに、行動を起こしたすべての人の心には勇気があったはずです。
誰かを助けたい、みんなに生きていてほしい。この思いこそ、行動への原動力、「勇気」ではないかと思います。
助けられた人も、「生きたい」と願っていました。愛する人、住む家、すべてをなくし絶望のふちに立たされてもなお、「生きたい」と願い、この10年間を生き抜いてきたすべての人の心にも、勇気があったはずです。

その人々の勇気が人々を行動に移させ、ここ10年で阪神地区は復興を遂げてきました。兵庫出身の佐藤江梨子がテレビで、「直後は話したくはなかったけれど、今は話さなければならない」といっていました。あの痛ましい震災を後世に伝える勇気、阪神地区の皆さんならすでにお持ちのはず。

ラストに、阪神地区、そして、中越地震、スマトラ沖地震の被災地の復興を望みます。

悪よりまし

「良い行いをしようとする気持ち」現在の僕の勇気の捉え方です。
誰かのために何かをしたい。そこまではできないけれどせめて自分はまっすぐに生きたい。
そう思い、それを行動に移すことが勇気ある行動だと思います。

栃木の小山市で二人の子どもが誘拐、殺害、さらに川に捨てられるという事件があったとき、ぼくは、小山市のまちBBSを見ました。多くの人が、殺害された子どもの捜索の手伝いをすると意思表示。
地元民のみならず、県外からの参加もありました。ただ、「この偽善者が!」というような書き込みもありました。その書き込みへのレスに、僕は心が動きました。
「偽善者でも悪よりかはまし。」

本心からにしろ、偽善にしろ、善は善。見返りを期待してやったことにせよ、良いことをすることには間違いない。
と僕は思うのですが。
確かに偽善者はなんか卑しい感じがします。でもこのレスで考えが少し変わりました。何もしないでぼけっとしているのと、偽善でも行動を起こすことのどちらがいいか。僕は後者じゃないかと思います。だって少なくとも、誰かの役に立ちたいという心が見えるじゃないですか。

「偽善でも悪よりはまし。」
心が動いた一言でした。

勇気の日とはなにか

お年寄りに電車の座席を譲れますか?相当な勇気が必要ではないでしょうか。すべての人がその勇気をだせるわけではありませんね。

この勇気の日が発案された2000年は、西鉄バスジャック事件をはじめとする少年犯罪が多発した年です。また、いじめが絶えない年でもありました。その年に参議院で開催された「2000年子ども国会」において、犯罪や、いじめ、自殺をなくす手段として提案されたのがこのアイディア。

誰かがやめようと声をかける勇気をもてば、いじめも止まるのでは?
悩みを抱えているときに、その悩みを打ち明ける勇気があれば、自殺に至ることもないのでは?
このような勇気を持つことができれば、日本はもっと明るくなるのではないのでしょうか。
でも、そのような勇気をいきなりだせなんて言われても無理で、少なくとも訓練が必要でしょう。
お年寄りに席を譲ることにも大きな勇気が必要(僕のこと)なこの時代に、何か勇気をだす機会を持つ必要がある。その勇気をだす機会を持つための日、そして、勇気のあり方を考えるのが勇気の日。

というわけで、まとまってませんが、これが勇気の日のコンセプト。このブログを運営していく中で、当然この考えに賛否両論がでるのは分かっています。一番期待しているのは、このアイディアが、多くの人によって考えられ、このブログを通じて、多くの人に認められるものになり、実現することです。

勇気の日実現のために、多くのみなさんのご協力をお願いします。

はじめの一歩

あれから5年、一度たりとも忘れはしなかった。
何度もやる気をなくしたけれど、やっと作り上げることができた。

このサイトを管理するenshinoといいます。政治家になりたいという野心を持つ高校生です。ついに僕は、自分のつくりたかったサイトをブログによって立ち上げることができました。

僕がこのサイトで訴えたいことはただ一つ。「勇気を持て」ということ。
5年前の夏、僕が2000年子ども国会議員として参議院に乗り込んだとき、これを訴えた子ども議員がいました。彼女は、「少年犯罪をなくしたい。その為にはみんなが勇気を持つことが必要だ」と言って、本会議において「勇気の日」の制定を提案しました。
それ以来、「勇気の日」を実現させようとする動きに加わりました。ここで言う勇気とは、「様々な状況の中で、良い行いをするためのエネルギー」と思ってください。

そして今日、僕は新たな形で動き出すことにしました。ブログの特徴を生かして、自分の意見を発信し、それに対して賛成反対の意見、感動、おしかりのコメントをいただき、その過程を経て、多くの人に勇気を持ってもらおうというのが、このブログの目的です。

このブログを立ち上げるにあたり、「勇気の日」の産みの親である共愛学園中学・高校新聞委員会のみなさん、毎日中学生新聞のみなさん、その他、勇気の日に関わるすべての人に感謝したいと思います。

多くの人が勇気を持てるように、少しでも自分が成長できるように。そんなブログを創り上げていきたい。自分と、みなさんと。