60分一本勝負で、思うところを書いてみようと思う。しばらく離れてしまっていたアカデミーキャンプや福島ドラゴンボートアカデミーに対する、なんともいえない申し訳なさがあってか、夏実施のキャンプについて「大人手が足りない」というアラートを受けてから、8月17日週にほとんどの振休と夏休を突っ込んでまるまる1週間休みにした。それで、前半はアカデミーキャンプ、中盤は越後妻有トリエンナーレ、後半は実家&ボートという算段にした。結果、体を酷使したが気持ちはリフレッシュできたと思う。ただ、あらためて、考えることは増えた気がしている。
投稿者「enshino」のアーカイブ
人事半年のなぐりがき:就職活動の時期と「研究」で思うところ
ちょっとまたシリーズものを書きたくなりました。最近ブログに記事を残していないのですが、本来は「そんなことをする暇があったら仕事しろ」と多方面から言われることもわかっています。ただ、こうして、書きなぐっておかないと気が済まないわけで。そしてご存知のことと思いますが、自己顕示欲の塊のような私は基本的に「誰かに分かってもらいたい」と思うことを多く抱えています。
人事になって半年が過ぎました。それはもう、思うところは多いです。本シリーズで記載をすることは、あくまでも個人の見解で会社の見解ではありませんが、とはいえこうして世に出すことによって誰かに気づかれ、そして誰かの共感を生んだとすれば、それほどうれしいことはありません。
さて、最初に書きたいと思ったのは就活の期間。たぶん、みなさん翻弄されたわけだし、代案を示すから文句くらい言ったっていいでしょ、と思うので、書いてみました。
データストラテジスト見習いを1年半やって思い立った「5つの必要なこと」
みなさまこんばんは、大半の皆さんはあけましておめでとうございます。
2014年も嵐のごとく過ぎ去り、2015年になってしまいました。2014年の26歳の誕生日に掲げた基本コンセプト「かわいく生きる」はそのままに、2015年はより「ていねいに生きる」を志向して過ごしたいと思います。
2014年も相変わらずいろいろなことがありました。雪合戦に行ったり、キャンプ企画に行ったり、ボート漕いだり、携帯電話失くしたり、何度か閉じ込められたり、初めて北海道行ったり、久々に石巻行ったり、しょっちゅう郡山行ったり、突発で新潟行ったり。ですが、生活の中心はやはり仕事にあったと思います。新年早々動画作成から始まり動画作成に終わったと言っても過言ではないかもしれません。SNS出現率は輪をかけて減り、一時は死亡説さえ出ましたが、遠藤は生きています。
そう、あくまで私は「データストラテジスト見習い」をしていたのです。このブログの熱心な読者ならば私の素性はお分かりでしょうが、2013年4月に新卒入社した会社にて、その年の6月から「ビッグデータ」みたいなものを扱う集計担当をしています。その配属から1年半が経ちました。毎日がエクセル先生と接する日々、それより相性のいいパワポたんともお仕事を一緒にします。食料品・日用品分野において「それ買われてんの?」というデータを取り扱い、そうしたメーカーさまや代理店さまのご要望に沿うデータをお出しするという仕事です。ちなみに語弊があるとアレですが、見習いとはいえ「プロ」であることには変わりませんし、その自覚がないわけではありません。そこだけ、ご留意を。
世の中的には「データサイエンティスト」という職業が「セクシーだ」とされ、はて私はセクシーになれるのだろうか、いやむしろかわいくなりたいんだが、と思いつつ仕事に励んでくる中で、マーケティングの「マ」の字も知らず、統計や集計よりも資料や動画作成に勤しんでいたような私が、徐々にですが、なんとなく、データを取り扱うということについて思う所が出てきたわけです。今日は、そのうちのいくつかを、完全なる受け売りにてお伝えしたいと思います。
先に謝っておきます。無知、身の程知らずを、お許しください。
「つらい」が聞こえなくて
居ても経っても居られなくなり、当然やるべきことは多いのですが、ここに気持ちを残しておきたいと思います。直接の接点はそこまで多い訳ではありませんでしたが、思い返しながらネットを徘徊すると、寂しさがこみ上げます。
携帯電話を失くして1ヶ月が経ちました
そして本日5月5日に、中古で発注していたiPhone5が届き、無事携帯電話が復活しました。ご迷惑をおかけした皆様、申し訳ございません。
さて、1ヶ月も携帯電話がない生活を送ると、さすがにいろいろなことを思うもので、思い出せるだけ書き溜めておきたいと思います。
【ダラダラ書いた】社会人になって感じた5つの「想定外」について
またちょっと、ダラダラと文章を書いてみる気が起きてきた。それだけでも進歩かもしれない、と思う。
社会人になって1年が過ぎた。正確にいえば、会社員になって1年が過ぎた。思った以上にあっという間だった。というか、気づいたらもう1年経っていて、実感というものはまるで皆無だった。こんなもんなんだろうか、こんなもんなんだろうな。
2014年の3.11 14:46は,丸亀製麺でうどんをすすっていた。
東日本大震災で失われた多くの命に対して,哀悼の意を捧げると共に,
東日本大震災により多くの困難を未だに抱えている人々が,いち早く復興を果たすことを,心から祈念します。
さて。
明日も仕事だというのにこの時間になって考え事をはじめてしまったのはよくないことは分かっている。
最近,やたらとブログを書かなくなり,きちんと振り返る,気持ちのログを残すという行為をしていなかったせいか,ここのところ「いままでとちがう」自分が見えてきて,悩むところも多い。そんななか,久々に筆を執ろうという気持ちになったことだけでも進歩だと思うから,書きたいことを書いておきたい。
今年の3.11の14:46は,黙祷をするどころかうどんをすすっていた。
本当に申し訳ないと思うけれど,結局そんなところだった。
自分自身でも後から気づいてショックだった。
忘れないわけない,あの揺れのなか,教室設営をしていた自分は,積み重ねていた机の下敷きになってもおかしくない状況だったし,階段を降りるのもやっとだった。
忘れられるはずがない,駅に行ったら電車が止まって,バイト先には到底帰れなくて,学校に戻ったら戻ったでイベント参加している高校生たちが帰宅困難になっていた。俺は残留慣れしているからよかったが,同じく来たく困難になった大学生の多くは,高校生たちをサポートするスタッフに変わった。
程度は緩いことなど百も承知で言えば,俺だって被災した。
当事者が3.11のことを忘れるはずがない。
逆に言えば,台風被害とか,豪雪被害とか,1.17とか,申し訳ないけれど自分の経験の範疇じゃないから,大手を振って「ピンと来る」とは言えない。
何かしなきゃという焦燥感をエネルギーにして走り切ったそこからの2ヶ月。
prayforjapan.jpの多言語翻訳はきっと役に立つ,そう信じてたくさんの人の協力を得て,それでも現地で思い知ったのは,それよりも生活の確保と金の必要性だった。その一方で,非被災地だからこそ受けたショックを癒すことにつながる可能性も見いだせた。直接的な被害を受けていないとはいえ,あれだけのインパクトの出来事だったわけだ,ショックを抱えた人もまた,被災者だったと思う。
プロジェクト結を通じて石巻を訪れ,現地に必要なことを知った一方で,何もできない感覚にも襲われた。ITの領域で力を発揮出来ると思ったけれど,やっぱり現地にいかなければ意味がなかったし,それに東京からのサポートで露呈したのは自分の仕事のできなさだったりした。それは会社に入ってから拍車がかかるばかりだった。
アカデミーキャンプでは福島の子どもたちと接しているが,正直言えば子どもたちのことを「被災者」だなんて感じたことはこれっぽっちもない。かわいそうな子どもたちなんて考えたことは当然にしてない。建前上は「これからの福島を担う子どもたちに機会を与える」ことが目的だけど,結局内心では奴らとふれあうことが僕の心の癒しだったりするし,趣味だったりする。
繰り返すが,忘れられないはずがないんだけど,それは俺自身が割に当事者っぽい立ち位置にいたから,あるいは自分もアクターの一人だと認識していたからかもしれない。それでも今振り返ってみて,あのときはただガムシャラで,正直何のために動いていたのかはよく覚えていない。
そして日々に忙殺されるあまり,3.11の14:46は丸亀製麺でうどんをすすっていたわけだ。
3.11の14:46は,それはショックなことが起きた時間であることには変わりない。
毎年その時間が近づくにつれて,あのとき起きたことを思い出し,思いを馳せる。
そんなための時間として3.11の14:46というその「とき」を大切にするのは大切だ。
それはそれで大切だとしても,もっと大切なことがあるんだろう,と言って自己擁護をしたい。
大切なことは,明日に向けて何ができるかを「常に」考え,実際に行動することじゃないか,と思う。
あえてぶっちゃけると,祈りよりも想いよりも必要なのは,自分の身の安全と,大切なヒト・モノの存在と,そしてカネだ。明日に向けて,復興に向けて歩んでいくためには,「勇気」だけでは十分ではない。本当に忘れてはいけないのはこっちの方だと思う。prayforjapan.jpは,(特に非被災地の)人々の想いを,印税の寄付という形でカネと行動に替えることができ,しかも想いの共有によって(特に非被災地の)人々の不安を拭うことができた,本当に希有なプロジェクトだったと思う。あのプロジェクトをやったからこそ余計に,本当に「忘れない」で欲しいのは,次に進むための実質的な体力なんだと考えるようになった。だからこそ,震災詐欺だとあのプロジェクトを叩く人々は,きっと何もアクションを起こせないのだろうと悲しい気持ちになる。
しかし,それでも自分でも残念だが,3.11の14:46は丸亀製麺でうどんをすすっていた。
ここに現れる罪悪感はなんなのだろうか。その時間に鎮魂の祈りを捧げられなかったことに対する罪悪感。
大変申し訳ないが,被災地で被災した人々の状況と気持ちを,僕はきちんと自分ごととして理解ができていない。それは一つ,二人称で,あるいは一人称で現地の人々を捉えられていないからじゃないか,と思う。3年経った今でも活動を続ける人々は,もうすでに現地で一緒に活動を続ける人や,活動を受ける人々を,二人称どころか一人称で捉えているんだろうと思う。そこに「支援」という概念すらないかもしれない。そこまで没入している人々を近くで見ているからこそ,彼らが「3.11の14:46」に大きな想いを混めているのを見ると,自分の中途半端さが恥ずかしくなって,そして罪悪感を覚えるのかもしれない。
まだ,「それでも自分でも残念だ」と言えているだけでも,腐り切った訳じゃないと言い聞かせたい。
3年は一つの区切りと捉えられることが多い。もしこれで,これ以降5年・10年という「節目」に限らず毎年のようにやってくる3.11の14:46周辺に何も感じず,またそれに対して罪悪感すら感じなくなったとしたら,もうそれは完全に忘れている状況だろう。そうであってはいけない。
嬉しいことに,今僕が没入する活動を通じて,僕が親しみを込めて「ヤツら」と呼ぶ小中高生たちは,次に進むために自分たちで何ができるかを考え始めようとしている。「ヤツら」と一緒に,この先どう進んでいくかを考えるのが楽しみだ。
寝落ちをして,書き上げるまでに2日かかってしまった。
また明日がやってくる。
いや,来ないかもしれない。
そのために,悔いのない日々を送らなきゃいけないんだよなぁ。
ソーシャルアパートメントに暮らしています。
ご無沙汰しています。こんばんは。明日も仕事だというのに、今日の文筆欲は止められませんでした。久しぶりにブログを書いてみたいと思います。
さて、「卒業政策」シリーズを最後にブログの投稿はしていませんでしたが、社会人生活が始まり2ヶ月が経ちました。つい先日、仮配属先も確定して、そこでのOJTを行っております。新卒導入研修では、同期全部で36人とともに、座学からグルワ、徒歩ラリーに飛び込み営業などを行いました。毎日なかなか夜が遅くなることが多く、そのため明らかに実家から通学するのは明らかに無理な話でした。
んなわけで、引っ越しをしたのは大正解でした。引っ越し先は、東京都大田区蒲田。
4月1日から、ソーシャルアパートメント蒲田という物件に住んでおります。シェアハウスはいま話題ですが、複数ルームのアパートの部屋を少人数でシェアしたり、一つの家を5、6人で共有するタイプのシェアハウスは、私のライフスタイルから考えて以下の点で無理があります。
- 水回りの掃除が面倒
- 風呂の時間が限られる
- 食事が自分のつくりたいときにつくれない
- 当番制のタスクができる時間に帰って来れない
「んじゃ別に普通の一人暮らしでいいじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、なにより一人暮らしは初期費用がめちゃくちゃかかりますし、東京23区内で必要最低限で安い物件を探すのもなかなか難しいものです。
そこでネットでであったのが、ソーシャルアパートメント。以前社宅だった建物など、一人暮らし用アパートとしてつくられた訳ではない建物をリフォームして、複数人で水回りとリビングをシェアする暮らしをします。自室はカギがかけられるワンルーム。よく昭和時代を描いたドラマで登場するワンルームのアパートとは明らかに別物で、非常に快適な生活を営んでおります。
なにより、2ヶ月経ってもいまだに自炊ができていないほどに面倒臭がりや、かつ夜の遅い私のライフスタイルにおいて、自分の部屋は「服を収納出来て作業デスクがあって、なにより寝れればそれでOK」という場所ですから、5畳程度の私の自室は本当にちょうど良いのです。
なにより嬉しいのが、水回りや共有部の清掃は、専門のスタッフがやってくださるのです。つまり、係決めをして掃除担当をする、などといったルールは一切ありません。とにかくお互いに快適に生活出来るような気遣いと、お互いに生活を楽しむコミュニケーション力があれば、ラクチンな生活が営めます。
それでは、私が暮らすソーシャルアパートメント蒲田を少しご紹介しましょう。
もとは歯医者さんだったらしい建物。入り口を入るとすぐにリビングです。共用パソコンもあり、テレビもあり、ソファもあり。みんなで共有している書籍やお酒もあります。私はいつも帰りが遅いのですが、標準的な時間に帰ってくれば、必ず誰かがいます。週末は飲み会になることもしばしば。
キッチンはそれなりに広いので、きちんとした料理がつくれますが、私はまだ料理をしたことがありません。冷蔵庫は共有のものがキッチンに、そして個人のものが自室にあります。冷蔵庫だけでなく、お皿や食器、調理道具もそろっているので、買い増す必要はありません。
さて、自室をご紹介しましょう。私の部屋は5畳程度の狭い部屋ですが、ロフトベッドであるおかげで収納スペースは確保されています。キャンプ企画などで、代々木オリンピックセンターのA棟の個室に慣れているため、寝て作業して、という用途であれば非常に十分な作りになっています。
シャワーは3つあり、うち一つは湯船もあるのですが、平日は基本的にシャワーを浴びるのみです。でも大丈夫。大田区蒲田には、温泉が湧く銭湯が多くあり、歩いて5分のところにも一つ温泉銭湯があります。今日も、入ってきました。珍しいといわれますが、この生活になってから、手ぬぐいとアレッポ石けんで全ての洗浄をまかなっています。
さて、階段をあがってみましょう。この物件には18人が住んでいて、4つの階の全ての部屋が満室状態です。だからさまざまな住人がいて、非常に刺激的な日々を過ごしています。住人によっては、生活のアクセントになるようなものを置いてくれる人もいます。
私のお気に入りの場所は、屋上です。週末はたいがい昼に起きて洗濯物をして夕方出かけるという生活ですが、洗濯物や布団を干すために屋上にあがり、晴れている日はそのままハンモックで日光浴をします。この時間が非常に優雅でうれしいひとときです。
こんな環境で、一つ屋根の下、だいたい新卒年齢から30代前半までの人々が暮らしています。会社もバラバラ、生活スタイルもバラバラながら、みんな仲が良くて、誰かがいる環境を望んで、集まっています。そして、考えていることや取り組んでいることを話したりしながら、みんなで楽しいことをして過ごしています。
なぜかこの蒲田の物件では、私が「世間が狭い体験」をすることが多く、例えば…
- 先日結婚した元住人の奥さんと僕が大学時代に同じ授業を受けていた
- 住人の会社の後輩が僕の大学時代の友人
- 住人の高校時代の後輩が僕の大学時代の友人
- 住人の実家が僕の実家から徒歩5分圏内
という、めちゃくちゃ希有な体験をしています。
入居前日は、入社前日でもあったため「ちゃんと生活していけるかどうか」と、かなりの不安を抱えていました。しかし、そんな不安はすぐに吹き飛びました。蒲田という場所の雰囲気も相まって、もはや私にとって居心地のいいホームと化しています。
おかげさまで、まだ生活上の不満は出ていません。まぁこれから思うところもあるのかもしれませんが、僕はこの環境で、なんとかこの先もやっていけそうです。
【『卒業政策』vol.8 】現場に出よう。右手には情熱を、左に知恵を持って。
先日の3月29日の大学院学位授与式を以て、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生という立場に区切りがつきました。学士(総合政策学)、修士(政策・メディア)および「ヒューマンセキュリティとコミュニケーション」プログラム修了という肩書きを得て、いよいよ社会に出ることになります。こうして書くのも恐縮ですが、学位授与式においては、修士論文および最終試験での成績優秀者に贈られる「加藤賞」(初代総合政策学部長加藤寛氏にちなんで)を頂戴し、また社会言語科学会での発表賞受賞によって「SFC Student Award」を頂戴しました。実は、学部時代には「優秀卒業プロジェクト」を受賞し、また大学院1年次の終わりには鶴田浩之氏と共同で「SFC Student Award」を頂戴しています。
思えば、2時間半かかる距離にありながら、6年間の通学生活をこなし、教職課程を履修して三田・日吉・矢上の各キャンパスを行き来しながら正課の講義を履修してきてきて、なおもさまざまなプロジェクトに首を突っ込んだりSAやTAや学生ガイドとして大学に貢献したり、サークル活動に勤しんだものです。加えて、地元での研究フィールドワークと塾講師のバイトや放課後補習をやっていたわけです。その分、家族や周囲の大切な人々との団らんを犠牲にした部分は大きかったですが、確実に私の肥やしになったことは確かです。「大学生時代に学んだことなど、社会では通用しない、あたまでっかちになるだけだ」と言う人がいます。確かにそうですが、でも私自身は、この大学生活で多くの経験を積み、また実績としてそれを残したことを、自信に変換することで承認欲求を満たすのです。こうした、過去の栄光にすがる行為は、この先も続いていくのだと思います。
そう、こうしてさまざまなことに携わり、そこで学んだ事実はあっても、その学んだことの内容そのものは、社会人生活においては直接的に関わりを持つ訳ではないと思っています。特に私の場合、「総合政策学部」と「政策・メディア研究科」という、学際複合新領域、いわば何でも学べる環境で学んだからこそ、いったい自分は何を学んだのか、そしてその内容が本当に世の中の役に立つのかということを常に考えてきました。SFCで学んだ以上、「総合政策学」や「環境情報学」や「政策・メディア学」という学問が、いったいなんなのかを考えることからは一生かかっても逃れられないと思うのです。特に修士課程においては、学会に出席したり、三田キャンパスの授業を受けたり、研究プロジェクトに参加する中で、「はて、私の専門はいったい何だったんだろう」と考えてしまうわけです。
一つ前の『卒業政策』では、私の学問領域を「外国語教育学」と標榜しました。しかし、それですら私自身はしっくりきていません。そもそも、私自身は職業研究者になれるかどうかという点において、研究の基礎体力がまだまだ足りていないと思うところが強く、したがって修士課程の4年間は、私にとっては何かの学問的専門領域をつきつめたという感覚がないのです。文献をたくさん読んだり、適切な方法論や理論に基づいた研究デザインをしたり、適切なタームを用いたり、そういったことは修士論文執筆過程であっても不十分だったと今でも悔やんでいます。「学際」といえば聞こえはいいようですが、さまざまな学問領域の知見をつなぎあわせるに過ぎない場合も多く(私の論文がそうなのですが)、一つの領域を根本的に攻め込んだ従来の学問領域の研究者の強さには太刀打ちできないと考えています。
では、SFCで身につけたであろう「専門性」とは何なのか。私が今思う、「政策・メディア研究科」の専門性とは、もちろんそれは「総合政策学」や「環境情報学」の専門性でもあるのですが、それは「実践への連結」だと思います。多くの先人たちが積み重ねてきた学問の知見に敬意を示しながら、その知見をつなぎあわせたり統合したりしながら、実践活動に落とし込んでいくという部分において、SFCの学生や研究者は高い能力を持っているのだと思います。知見を実践につなげていくのはもちろん、すでに行っている実践を学問知見によって説明することを試みる点にもSFCの強みがあると思うのです。大学院進学を控えた2011年の3月の大半を費やした、あのprayforjapan.jp多言語翻訳プロジェクトは、言語政策学の知見に基づいた実践であり、その現象を研究に落とし込んだということの成果でした。また、アカデミーキャンプで行った実践「デジタルオリエンテーリング」は、ソーシャルメディアの利用の経験を実践につなげ、そして学問的なことばで説明を試みるに至ったものでした。私は、この「学問知見と実践をつなぐ」という分野においては、能力を蓄えたと思っています。
ところで、「自分のやりたいこと」に向き合う機会が多いのがSFCという環境なのですが、ある後輩が自分自身の研究テーマ、つまり「自分のやりたいこと」に悩んでいました。そのときに私は、「「何を」学ぶかではなく、何を用いて「どう」考えるかがポイントになると思いますよ」ということばをかけたことがあります。誰が言っていたかは忘れましたが、大学という場所は「考える」場所であると捉えられるそうです。もちろん、特定のトピックやコンテンツを学ぶというふれこみで大学が構成されている訳ですが、しかしそうしたトピックやコンテンツは、「考える」という営みのツールであると考えることもできます。その一方で、たくさんのことを「やりたい!」という熱意で行動に起こし、しかしそれらの行動を串刺しにするような言葉を持てない学生もいることも確かです。
「研究」とは、客観性のある事実や証拠や結果を、整理して構造化して示すことだと思っています。再現性や客観性が求められるのですが、しかし「研究」とは、決して全て客観的になれるものではないと思います。なぜなら、個々の研究者がその分野を選択するうえでは、その研究者個々の「これをやりたい、知りたい、訴えたい!」という主観的な情熱や動機が存在するからです。だからこそ、「研究プロジェクト」を中心に据えるSFCにおいては、情熱や想いや動機に支えられた「やりたいこと」を手にすることが求められるのです。SFCにおける「研究」は、文献を読み、調査・実験をし、論文を書き、という流れである必要はありません。自分でプロジェクトを動かしてもいいわけですし、何らかの制作物に落とし込んでもいいのです。だとしてもはやり、情熱や想いや動機に支えられた「やりたいこと」について悩む時が必ず訪れるのだと思います。
じゃ、その「やりたいこと」は、どうやって見つけるのでしょう。
私が3年生だった春学期に、5月まで学部長をしていたある先生は、こうおっしゃいました。「扉は勝手に閉まっていく」と。つまり、年月が進めば、「自分のやりたいこと」に絞りがかかるというのです。でも私は、勝手にしまる扉を待つには4年では短すぎると思います。私は幸せなことに、6年間大学にいることを許されたし、追いかけるテーマが決まっていたからこそ、勝手に閉まっていった扉の先で、共通したテーマである「コミュニケーション」ということばに基づく活動を広げることができました。しかし、全員がそういった期間を持つことはできない。だとすれば、「自分のやりたいこと」に向き合うためには何が必要になるのでしょうか。
それが、タイトルにあげたことば、「現場に出よう。右手には情熱を、左に知恵を持って。」です。
すでに述べた通り、SFCの専門性は、現場での実践活動において真価を発揮すると思います。「研究的実践者」や「実践的研究者」といった人材を育てていくことこそ、福沢諭吉が目指した実学の学塾の在り方だったのだと思っています。それにはまず、実際の現場に出て行き、そこでさまざまなものを見て、聞いて、話して、感じて、動いていくことが必要だと思います。「問題発見・問題解決」というスローガンが現在でも廃れずに残っているというのは、やはり実社会の諸問題を解決へと導く人材を育てていくという理念が連綿と続いているからだと思います。その「問題発見」は、現場で生の情報に触れるからこそできることであり、「問題解決」は、現場に寄り添う形でこそ効果を発揮する政策になるのだと思います。
私自身は、考えてみればいろいろな現場に出ていきました。そういった現場で、課題点になるようなことを自分なりに見いだし、自分自身の理想を持ち出し、それがうまく行かずに悩み、それでも何かの答えを出そうともがいて動いて、だからこそこの『卒業政策』シリーズに載せたようなことを思考した訳です。だからこそ私は、現場に出ることににこだわりたいし、全てではないにせよ、多くのSFC生に、現場に足を踏み入れるということを実践してほしいと思うのです。
そのときに、右手(というか、利き手)には情熱を持っていてほしいと思います。どうしてもこの現場に関わっていきたいと思うモチベーションがなければ、何も得られません。やらされている感覚は、時おり出ることもあるでしょう、とくにプロジェクトの場合などは。それでも自分なりに、関わりを持ちたいと思うモチベーションのポイントを見つけていくことが重要だと思います。私の場合のそれは、「くっだらないと思うほどおもしろい」という好奇心だったり、「何かしたい」という焦燥感だったりした訳です。そうした情熱は推進力となって、「考える」時間を忘れてしまうほどに自分自身を没頭させます。その先に、なにかが見えてくるはずです。
しかし、「右手の情熱」だけでは自分自身で没頭してしまい、「考える」ことを忘れてしまったり、あるいは見えてきたものが何なのかを考えることが難しくなってしまいます。左手(つまり利き手ではない手)で「知恵」をもつことで、行動しているときの自分の想いだったり、悩みだったり、発見だったり、そうしたものを説明するための言葉を手に入れることができるのです。ここで「知識」としなかったのは、いざという時に使うには「知識」のままではすこし難しいと思ったのです。自分の中で解釈を挟み、自分のものとして手に入れた「知恵」だからこそ、自分の中に起きていることを説明しやすくなるのだと思います。でも、その「知恵」は、「知識」をとりいれていくプロセスによって可能になるのだと思います。だからこそ、教養課程の授業だったり、SFCで言えばさまざまな分野の講義やワークショップというものが重要になるのでしょう。
このように考えていけば、SFCという学問環境において、「総合政策学」や「環境情報学」や「政策・メディア学」という学問の名前そのものは重要ではないのかもしれません。というか、現場という環境において適切に情報を得て、解決策としての政策につなげていくという現場実践にこそSFCの真価があるという説明が、現在の私にとって一番しっくり来るものだと思っています。そうした、「現場実践と学問知見の交渉領域」はまだまだ未開拓であり、だからこそSFCの役割というのはこれからも続いていくのだと思うのです。まだまだ、挑戦は続きます。
間もなく日付が変わり、会社員としてビジネスの世界に飛び込むことになります。ビジネスもまた、社会実践の現場です。私が学んできた「知識」や「内容」自体は、次のフィールドには直接は役立たないかもしれません。しかし、これまでの6年間で行ってきたさまざまな活動のなかで得た経験と、その経験のモチベーションになった情熱、そしてそうした活動を進める中で得た知恵は、私自身が困難に打ち当たったとしても、決して消えることはないだろうと思います。私は過去に執着する人間ですから、それをポジティブに捉えれば、そうした過去の経験は私にとっての血肉そのものだと思って自分を奮い立たせることができます。そうした環境への感謝を抱きつつ、そろそろ次の現場に出て行く時間になるようです。
みなさまこれまで、本当にありがとうございました。
【『卒業政策』vol.7 】ことばの教育の、あした
私は、たとえば「理系の大学院でしょ」と間違われたり、「専門はITでしょ」と勘違いされたりすることが多いのですが、主たる研究分野は外国語教育学です。社会言語学、教育政策学、教育心理学あたりを包括する形で研究論文をまとめていました。実はこの研究分野は、SFC入学から6年間ずっと追いかけてきた分野であり、研究会のテーマ選択はもちろん、講義の選択、そして教職課程の履修といった部分に至るまで、SFCの生活の中核に位置していたと言えます。「政治家になりたい」と言っていたAO入試の時からは想像がつかないものでした。
茨城県では、県教育委員会が主催で、英会話コンテスト「英語インタラクティブ・フォーラム」が開催されています。このコンテストの出場者に、どのような変化や学びが起きていたのかを追いかけることが私の研究テーマでした。そもそもの取り組み自体が、教育実践としても、また教育政策としても面白いと思っていました。初対面の中学生たちが、あらかじめ示されたテーマについて、即興で英会話をする。原稿は持たないし、質問と受け答えによって会話が進んでいく。まさしく、インタラクティブ性(双方向性)をもった実践です。一部の代表者が出場するという点では「学校教育」というよりも「課外活動」なのですが、しかし英語のテスト成績が良くない生徒であっても、力を発揮することがある場だったのです。
私が追いかけていたのは、中学生時代の自分の経験です。つまり、そもそもの研究の動機は、自分がそのコンテストに出場したこと、そして、その当時やその後に感じた自分の中の学びや気づきが、他の子どもたちにも起こるのかどうかを検証したいと思ったことでした。自分にとって、そのときに学んだ、コミュニケーションの楽しさ・難しさ・大切さだったり、自分自身がそこで認められるという経験は、私自身がずっと信じ続けていたものでした。だからこそ、自分が信じている経験を、他の子どもたちにも経験してほしい、それが教育が抱える諸問題の解決につながるのではないか、と考えたわけです。
「コミュニケーション」ということばはマジックワードです。私は、斉藤孝さんの「意味と感情のやりとり」という定義を持ち出すのですが、その内実はなんだかよくわかりません。それでもなお、人間はこのコミュニケーション行為を避けて生きることはできないと考えています。より良いコミュニケーションを通じて、「わたし」を知り、「あなた」を知り、そして「わたしたち」になることを目指すことが、秩序ある社会の形成に必要だと考えています。ことばは、さまざまにあるコミュニケーションの媒介の一部でしかないことは分かっています。しかし、意味を持ったことばで相手に何かを伝えたり、あるいは自分自身で何かを考えたりすることは、言語を操ることのできる生物の特権ではないでしょうか。
私は別に、この研究題材を通じて、英語の力を伸ばさなければいけないと考えている訳ではありません。英語の力は、たしかに「グローバル社会」とやらにおいて、共通語として使われている事実からしても、ある一定層の人間には必要な力です。しかし、何も外国語は英語だけではなく、世界にはもっと多くの言語が存在する訳で、そうした言語たちに目を向けてもいいはずだと私は考えています。英語は、合理的な選択の一つでしかなく、あくまでも外国語学習の入り口として中学校から導入されているのだと考えています。つまり、学ぶべき言語は何でもかまわないし、何を勉強してもいいが、合理的に考えれば「まずは英語だろ、その後に別の言語だろ」と考えられるというわけです。
それよりも私が大切だと考えているのが、この「コミュニケーション」という得体の知れない事柄そのものです。しかし、得体が知れないにも関わらず、避けて通ることはできないところに、コミュニケーション行為の根源性があるのだと思います。コミュニケーション能力ではなく、コミュニケーションの経験を積むこと、そのためにも、日々のコミュニケーション行為を相対化して、楽しさだけでなく難しさも経験し、その先に困難を乗り越えるスキルや意志を持っていけるようにしたいと考えています。このスキルと意志によって、人間関係によって生ずる課題や困難を乗り越えることができるのではないだろうか、と考えています。外国語を学ぶ意義とは、この「コミュニケーション行為の相対化」をする上で、あえて通じない・理解出来ない言語に触れるという経験をする点にあると思っています。難しくて投げ出してもいいし、楽しくてハマってもいい。そこで「何か」を感じることが重要なのです。
だからこそ、教育においては、英語一辺倒になってはならない。繰り返しますが、合理的理由から英語を中学校における外国語として採用することについては問題ないと考えています。しかし、英語「だけ」で止まってしまっていることが問題だと思うのです。小学校が「外国語活動」ならば、なぜ英語以外の言語に触れる機会をもっと増やさないのか。なぜ、多様な人々が住んでいるこの国において、そういった人々の言葉を学ぶ姿勢を見せることで彼らに安心感を与えないのか。そうした態度を示すことは、国力の増強につながると私は捉えているのですが、しかし経済成長を志向する人の多くは英語しか見ていない現状があります。だからこそ、個人研究では「英語」の活動を研究しつつ、ゼミでは「小学校多言語活動」を推進してきました。そうしたバランス感覚を持つことが、必要になるのでしょう。
繰り返しになりますが、コミュニケーションの目標は、「わたし」を知り、「あなた」を知り、そして「わたしたち」になることを目指すことにあると思います。そのためには、酸いも甘いも知る必要がある。そして、経験のなかで学びを得ていく必要があると思います。よりよい「あした」をつくっていくことに対して、ことばの教育が貢献出来るのだとすれば、それは、よりよい「あした」をつくるための言語使用の経験を得てもらうという点です。コミュニケーションという行為が、難しくて、もどかしくて、それでも楽しいから諦めない、という態度を持っていくことが、あしたの世界を創っていく、グローバル時代の人間に求められる態度だと思います。外国語教育は、だからこそ意義深いと信じています。