【『卒業政策』vol.6 】「じぶんごと」で考えて動くように

教育や地域のことに携わってきた私にとって、2010年に出会った「新しい公共」や「熟議」の考え方はしっくりくるものでした。私自身は、ながらく「熟議」を、方法として捉える勘違いをしていましたが、実際はそうではないということにようやく気づきつつあります。それでもまだ、「熟議」や「新しい公共」の本質は分かっていません。だんだん自分の中でみえてきたことは、問題を「じぶんごと」として捉えて、そして動いていくということです。これを実践することって、なかなか難しい。

2010年に「熟議」という言葉をなんとなく耳にしたとき、友人が突然「俺は、熟議をしなきゃいけないんだ」と言い出しました。なんのこっちゃ分からないなかでメーリングリストに入れられ、そしていつのまにか携わっていた「リアル熟議in日吉」。7月24日に、仲間たちと熟議を主催した時の機材準備ぶりはものすごいものだったと思い出されます。全面Ustream中継やTwitterでの実況などを行い、大々的なイベントになりました。その後私は、文部科学省熟議協働員という役名を拝命してしまい、とくに何ができた訳ではなかったのですが、なまじhttp://real-jukugi.org/ というドメインをとってしまったり、大学熟議主催団体の一員だったことから熟議懇談会委員のみなさまと就職活動について話し合うという役回りを与えられたこともありました。とにかく2010年から2011年にかけては、「熟議」がブームのように感じることもありました。

「熟議は課題解決の方法なんだ」と考えを改めることになったのが、教職員熟議Saitamaという取り組みです。埼玉県を中心とする先生方といっしょに熟議を運営し、「学校をチームにする」というテーマで、連続の熟議に取り組みました。そのあたりから、それぞれが持っている課題をもちより、ひざ詰めになって話し合いながら、実際の行動に落とし込んでいくという取り組みであると解釈するようになりました。特に、連続熟議ということで、課題を抽出する熟議、その解決方法を考える熟議、時間をおいて実際に行動をとってその反省をする熟議、そしてまとめの熟議という4回にわたって実施しました。先生方のチームとともに、「熟議を学校に!」という提案書を制作したことが思い出されます。

そのさなかに起きたのが、311の震災でした。あのときは、自分の身を守ることや、家族の心配をするのはもちろんですが、「なにかしなきゃ」という焦燥感が先行していました。自分にできることはないか、なにかの行動にでなければいけない、そのように考えている中で、「熟議」で出会った皆さんはそれぞれに行動を起こしていました。「プロジェクト結」に関わるようになったのもそれがきっかけです。プロジェクト結は、「子どもの学びと遊びを支援する」という理念のもとに、石巻で「学校サポート」や「子どもの遊び場」、そして現在では託児所事業を展開しています。現在の形になるまでの過程で、石巻の現地で活動するメンバーや、それを東京で支えるメンバーが、何度も話し合いを重ねてきました。もちろん、現地で起きていることに対して、メンバーは真摯に向き合ってきました。

私自身は何ができたかといえば、ただ言われるがままにやっていただけだ、と認識しています。「僕には、なにもできていない」と思う日々もありました。プロジェクト結では「やりたい人が、やれることを、やれるだけ」という考え方があります。あくまでも、ボランティア・プロボノ組織である以上、過度な負担を持つことは避けなければいけません。それでも、自分がやりたいと思って参加している以上、それが続くようにしながらも、やりたいことを全うすることにこそ意義があるのだと思います。時おり自分でも恥ずかしくなるのが、自分自身でも「じぶんごと」に引き寄せて、行動をとれない部分があるという点です。

最近、この「じぶんごと」に引き寄せて考えて行動をとるところに、熟議の考え方の本質があるんじゃないかと思うようになりました。まだ自分にはできていないことです。でも、問題をだれかに任せきりにしないで、自分のこととして取り組んでいこうとするからこそ、課題もみえてくるし、解決策も具体的になるし、それに対する納得度も変わってくるのでしょう。そのために熟議を行うのであって、決して熟議はイベントごとでもなければ方法論でもない、ということが、ようやく見えてきました。私には、「熟議民主主義」の学術的な議論は全く分かりませんが、それでも「じぶんごと」の5文字に落とし込むことによって理解をするようになりました。この理解を、今度はきっちりと、自分の実践に落としていけるように頑張りたいと思います。

【『卒業政策』vol.5 】「マジック」と呼ばれる、自律性と自主性

奇跡的なことが起きて、それが良い方向に向かうとき、人はその現象を「マジック」といいます。しかし、そうした現象は本当に魔法として起きている訳ではなく、なにかの事柄が起きているからこそ発生するわけで、偶然のようですが、しかし偶然の積み重ねから必然的に「マジック」が発生することは多いと思います。「マジック」を「マジック」のままにさせておくことはストーリーとしては美しい。しかし、その「マジック」が良いものであればあるほど、それがいつでも起きるように、その要素が何なのかを解きほぐすこともまた、必要だと思います。この「マジック」を解き明かすことは、組織というものがどのような場合に成果をあげるのか、ということを理解する上で重要なことだと考えています。

何の話かといいますと、私が所属をしていた吹奏楽サークル「Dolce」でしばしば起きる現象です。私自身は吹奏楽を10年以上続けており、中学生の頃からチューバという楽器を演奏してきました。大学でも吹奏楽を続けた訳ですが、愛着のあるサークルと暖かく迎え入れてくれる仲間たちがいるということから、大学院生になっても顔を出し、しまいには2012年11月の定期演奏会では、修士論文を控えていながら出演と司会を務めてしまいました。学生だけでマネジメントまで行う団体にも関わらず、自己資金のみで大型のコンサートホールを借り切って演奏会をするほど。演奏レベルも決して低い訳ではありません。東京ディズニーリゾートが行う「Disney Music Festival Program」というアマチュア演奏団体の招待プログラムに、2009年から4年連続で出演を果たしています。

実は、そうした演奏成果が発揮されるのは、決まって本番直前です。それはまさしく、慶應SFCの割に多くの学生が、締切前に焦りだしてレポートを仕上げるような成長曲線に似ています。本番が近づくにつれ、それまでの練習とは比べ物にならないくらいの曲の仕上がりや和音の響きがすることが多く、練習開始期や中盤に頭を抱えたり堪忍袋の緒を切ってしまう指揮者たちを、最後には涙の大雨にさらすということがここ数年ながらく続いていました。

そうした、本番直前期に格段にレベルが上がる現象を、サークル内では「Dolceマジック」と呼んでいます。この現象は、決してマジックではなく、なにかしらの事柄が積み重なって起きた、必然のものであると捉えるべきだと考えています。そしてもちろんこの現象が起きるための要素はいくつかあると思いますが、その中核に位置していると考えられるのが「自律性と自主性」です。

指揮者や幹部の心配は、ひとえに練習に人が集まるかどうかです。特に、開始期や中盤期にはなかなか人が集まらない。しかし、本番が近づくにつれ、それに焦りを感じて練習に参加するというメンバーは増えていきます。そうした類いの自覚が現れることによって練習の物理的回数が増えて質が向上するということが一番大きな原因なのでしょうが、それは心理的にはネガティブファクターです。「マジック」という、ポジティブな捉え方のなかで質が向上していくのは、焦燥感ではない、別の要因によって生じる「自律性と自主性」によって、メンバーのテンションがあがっていくからだと考えています。

たとえば、その機能の一つに、「班」という制度があります。「Dolce」というサークルでは、幹部役員、指揮者のほかに、団体運営に必要な庶務やイベントの窓口担当を2年生相当の学年が「係」として担当する体制をとっており、規約にそれが示されています。「班」は、この枠組みの外側で、有志によって運営されるもので、おもに演出、広報、映像、音響などの係があります。この「班」への参加は義務ではなく、自主的にやりたいことをやる勝手連でしかありません。だからこそ、自分たちのやりたいことをとことん追求し、自主的に行動をとることでその質を高めているのです。私自身も音響班として、前述のディズニーのプログラムに応募するための映像撮影時には、多地点録音を行いました。また、広報班の制作するパンフレットは、毎年デザインに凝っています。演出班に寄る演奏会演出では、毎年のように小道具大道具の制作を行っています。

彼らは、好きでやっているだけです。自律的に(つまり自分たちのコントロール下で)、自主的に、好きなことをやっているだけ。ですが、クオリティを追求することによって出てくる高いレベルの制作物を他のメンバーが見ることによって、彼らのテンションが全体的にあがっていくということがあると思います。そうした、個々の自律的かつ自主的な貢献によって、組織全体の質が向上する現象が「マジック」なのだと思います。

【『卒業政策』vol.4 】学校と、おっちゃんおばちゃん、またはあんちゃんねぇちゃん

学校の先生の仕事が大変だと言われています。もはや昨今の学校教員は世論からの批判にさらされる存在になっているような気がします。一方で、校務分掌は増え、部活動にも取り組み、そして会議の連続… ゆっくりと子どもたちに向き合ったり、授業の教材研究に専念する時間はなかなかなさそうです。そこへ来て、東日本大震災でより鮮明になったのが、地域の中での学校の役割の高まりです。住民同士のコミュニティ形成が難しくなっている昨今、学校は最後のよりどころなのかもしれません。そうすると、学校の先生は勉強だけ教えればいい、なんてことが通用しなくなります。

私自身は、自分の研究フィールドとしてのみならず、教職課程の履修を通じて、かなり頻繁に学校現場を訪れるだけでなく、生徒と接する矢面に立つことが多くありました。また、学校の先生方の「熟議」の経験もあり、学校教育現場で何が起きているのかを自分の目で観察したという自負があります。特に、教育実習の経験は大きいものでした。就業インターンと捉えた場合、職場としての学校に対して考えを巡らせたのは、事務量の多さ、職場のチーム性、そして労働時間でした。特に最後について、若手教員は「セブンーイレブン」状態になっている方もいらっしゃるほどです。「日本最大のブラック企業は公立学校だ」などと言うときがありますが、冗談では済まされません。

そんな私だからこそ、学校のなかに、保護者だけでなく地域の住民が入っていき、学校運営を支えていこうとする考え方や、そうした方法を活かした地域コミュニティづくりの大筋には賛成しています。先生方が生徒と向き合い授業で真剣勝負ができる環境を整えるために外部の人間にできることを労力分散することは大切だと思っています。そうした地域との連携が、地域づくりのハブになるということにも期待を寄せています。何より、どうしても閉鎖空間になりやすい教室および学校という「社会」のなかに、外から人材を入れることで、多様性を生むだけでなく、より多くの「目」によって、児童・生徒に関わることができると思います。そしてそのときの地域の人々の立場は、「○○先生」ではなくむしろ、「おっちゃん・おばちゃん」あるいは「あんちゃん・ねぇちゃん」で充分だと思います。

私自身は、「古河市英語サポーター」として、市内の中学校での「放課後英語補習」に4年間従事しました。1年目は、同じ学校に派遣された方に用意してくださったプリントを実施し、2年目は教材を自分でコピーをとったりしました。しかし著作権的にグレーだということになり、3年目で共通教材作成プロジェクトが立ち上がります。その際に作成した「Five Star English Support」は、基礎基本の総復習教材を心がけ、私が中心になりつつ、他のサポーターの方と協働して問題選定などを行いました。そして4年目には、新たに加わったメンバーどうしで「英語サポーターズ・クラブ」が発足します。

この、「放課後英語補習」の「英語サポーター」は、多くが地域住民の「おねえさま」です。主婦として生活をしている方もいれば、個人経営の英語塾をなさっている方もいらっしゃって、それはさまざまです。そうしたサポーターたちが、教育委員会に登録され、指導主事のコントロール下で各学校にマッチング・派遣されていきます。しかし、なかなかうまく行かない部分もあり、学校とサポーターとの関係、その仲介としての教育委員会指導課の処理能力などには、課題が残ります。それでも、事業開始から4年で、自主制作教材やサポーター同士の自主サークルが立ち上がったことだけでも、成果だったと思います。

この事業を行いながら、生徒にとっての意義とは、新しい関係性のなかで何かを発散する機会になる、ということだと感じました。関係性が親密になればなるほどに、生徒はいろいろなことを話してくれます。私もイジられたりイジったりしました。その、先生−生徒という関係ではない関係性があったことに、大きな意義があったと思います。一緒に同じ学校に派遣されたある「おじさま」は、日本語指導サポートもなさっていて、担当する生徒が「先生には内緒ね」という話をしてくると聞きました。また、別の「あんちゃん」(大学生)サポーターは、補習終了後も質問のある生徒にずっと付きっきりでした。そういった関係性の構築は、生徒たちにとっても新鮮だったのでしょう。

だからこそ、温厚そうに話を聞いてくれる「おっちゃんおばちゃん」という地域住民や、近しい年齢どうしの「あんちゃんねえちゃん」という大学生が関わりを持つことは、これからの学校運営においても必要になってくると考えています。そうした人材を、どう活用するか・できるか、その経営能力もまた、教育委員会や学校の管理職には求められるのではないでしょうか。

【『卒業政策』vol.3 】未来創造塾に望むこと

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスは1990年に開学しました。問題発見・問題解決を掲げて、様々な領域の学問を取り扱う場所として設計され、そして藤沢の里山の中に産声をあげてから20年。様々な大学改革の取り組みに挑戦してきたなかで、新たな挑戦を打ち出しました。それが、未来創造塾です。滞在型の教育・研究施設をつくる、その狙いとしては、一つには海外からの研究者がスーツケース一つで研究をしにくることができる環境を設計するという研究のハブとしての機能、もう一つには共同生活を学生が送ることによってグローバル人材を育成しようとする教育施設としての機能を持たせる点にあるようです。計画では、もう建物は建っているはずでした。しかし、経済の浮き沈みは突然で、資金面からなかなか計画は進まない。現在では基金室のホームページが立ち上がって、塾員のみなさまにご支援をお願いしているところです。タイトルにある「望むこと」を最初に挙げるとすれば、「早く建ってくれ」です。

しかし、私には「早く建って」と思う以外にも「望むこと」があります。それは、「未来創造塾ハウスプロジェクト」の一員として動いてきた経験を持つ身として「望むこと」です。一言に集約するならそれは、「学生が、生きることと真剣に向き合う場所にしてほしい」ということです。

新しい施設が建つことで新しい制度が動き出すことに対して、自分も関わりたいという思いを持った大学2年生の頃に、友人に誘われる形で集められたのが「ハウスプロジェクト」のはじまりです。滞在型教育施設(いわば寮)に新入生を一定期間滞在させるときの「先輩」(別名「ハウス・リーダー」)の候補として、実際に建物が出来上がる前から、新入生どうしのつながりの形成のイベントを実験的に行っていこう、というプロジェクトでした。履修相談会やスポーツ大会、夕食会など、サークルでも研究会でもない、昔で言う「アドバイザリーグループ」のようなくくりでイベントを運営してきました。

その後、2010年の2月と3月に、「ハウス・リーダー」を育成する研修プログラムの「実験」が行われます。私と、仲間たちは、実験の参加者でしたが、そのくくりとは全く異なる「絆」のようなもので結ばれたような気がします。本城慎之介さん、今村久美さんといった方々とワークショップを共にしながら、徹底的に自分と向き合い、仲間と向き合いました。2泊3日の合宿を行った2週間後には1週間の泊まり込みも経験。涙を流すこともありました。自分自身が揺さぶられながら、自分という人間について見つめなおし、そして仲間たちとていねいに付き合いながら一つのものをつくりあげる試みをしました。

おそらくですが、滞在型教育施設ができれば、たとえばAPUのように、希望する学生がそこで共同生活を行うための場所になるだろうし、あるいは新入生が順繰りで宿泊プログラムを受講していく場所になるかもしれません。そしてそこには、「先輩」の存在は不可欠です。まず求められるのは、「命を守ること」にあると思います。それは面倒を見る居住者だけでなく、「先輩」本人も、です。決して事故や事件があってはいけない。物理的な人体の損傷だけでなく、精神的に追いつめられたり、文化的な生活が崩壊することのないようにしなければいけない。でなければ、良質な研究や活動、まして勉強はできないはずです。

そして、様々な活動に自分が接するとともに、授業やSA業務などを通じて様々な後輩たちと接点を持つなかで気づいたのは、良質な研究や活動、その足場となる勉強をするには、自分ときちんと向き合い、自分が持つ想いや熱意を正直に自覚すること、そしてそれを仲間とシェアしながら高めあっていくことが必要だということです。SFCは、様々なことが多岐に渡るからこそ、どうしても独りになってしまいやすい環境だと思います。だからこそ、自分と・仲間と真剣に向き合って、自分の考えや相手の考えをぶつけ、刺激を得る場が必要になると思います。もちろん、そうした刺激を毎日得ることはとても辛いことです。だから、時おり殻にこもることも必要で、しかし殻にこもって落ち着いたらすぐに戻って来れる場としての機能が必要だと思います。そうした、「向き合うこと」の行き来こそが、SFCで「生きる」ことだと思います。この点において、私は「グローバル人材」なんちゃらとか、求めません。それは高尚過ぎます。

ぶつかりあい、また落ち着ける。真剣に取り組み、また安息を得る。現在の残留のシステムにおいても、本気で学問をすることは可能ですが、物理的にも文化的にも健康とは言えません。滞在施設に大きなお風呂があるだけでも違いがあります。それに、親御さんが安心して子どもを学ばせる環境として宿泊施設は必要です。しかしそれ以上に、「自分と、相手と、丁寧に付き合う」ことを可能にすることこそ、「未来創造塾」の担うべき役割として期待するところです。

【『卒業政策』vol.2 】地域活性の3つのキーポイント

地域活性ネタをもう一つ。イルミネーション湘南台の慰安旅行として行った、新潟県魚沼市小出の「小出国際雪合戦」は、私の冬の年中行事となるほど重要なイベントとなりました。2013年は都合により行けなかったのですが、これほどまでに楽しみにしているイベントは無い、というほどにハマってしまっています。イルミネーション湘南台の卒業生たちが、現在では社会人雪合戦チームを結成して臨むほど、人々を魅了します。毎年のように、社会人になっても手間を惜しまずに準備を行い、たった2日間を大いに楽しむ、その魅力はいったいどこにあるのでしょうか。そしてその魅力の源泉は他の地域活性事例にあてはめられるのでしょうか。

地域が活性するポイントとして私が捉えている要因は3つあります。特に、外の人に来てもらうようなイベントとして地域活性が成立するには、次の3点がポイントになると思っています。一つはおいしい食事とお酒、もう一つはデメリットをメリットにしてしまうだけの資源とアイディア、そして最後はバカバカしいほどのくだらなさ、です。小出国際雪合戦には、その全てが集約されていると感じました。だからこそ僕はハマってしまうし、同様のリピーターも多いのだと思います。イルミネーション湘南台については、この3要素はそれほど当てはまりません。しかしそもそも、過疎化地域における活性化と、新興都市部における活性化とでは、わけが違います。いわゆる「いなか」に来てもらうための仕掛けが何か、というのがこの『卒業政策』のポイントになります。

一つ目のポイントである「おいしい食事とお酒」ですが、正直言えばこれは「いなか」であればどこにでもあると思っています。特に、いわゆる中山間地域で農業地帯であれば、食材もお水も美味しいに決まっています。もちろん魚沼といえば全国に知れ渡る米どころ、かつ酒どころです。小出国際雪合戦大会では、その前夜祭において、地酒とおにぎりとその他たくさんの食事が振る舞われますが、それのおいしいことおいしいこと。多くの地元外の参加者がこの要素に惚れてしまうのです。このおいしい食事とおいしいお酒は、必然的にコミュニケーションを形成します。外部と内部との接点だけでなく、内部コミュニティにおいても同様です。

二つ目のポイントになる、デメリットをメリットにしてしまうだけの資源とアイディア。これについては少し説明が必要ですね。魚沼市は、2012年の話ですが、災害対策基本法による豪雪地帯の指定を受けました。つまり、雪が災害指定レベルで降るわけです。尋常じゃないほどの積雪量は、中山間地域で老齢人口が増すばかりの地域にとってはデメリットでしかないと僕は見ています(もちろん地域の人々は昔からそれと付き合ってきた訳ですが)。スキー場の観光資源化もなかなかむずかしい。そんなデメリットになってしまうような雪を、雪合戦というアイディアでコンテンツ化してしまっている点に、小出国際雪合戦の工夫が感じられます。雪はまぎれもなく資源です。その資源をどのように活かすかに、活性化のアイディアのポイントがあると思います。

最後のポイント、そしてこれは僕がさまざまな物事の価値判断をする際にかなり重視していることであり、また小出国際雪合戦以外にもいくつかの事例であてはまるのですが、それは「くっだらない、ばっかばかしい」ことを本気でできることです。小出国際雪合戦については、かつて私が書いたブログの記事をご覧いただくか、Googleで画像検索※していただくと分かるのですが、とにかく「ガチ」なんだけど「ガチ」じゃない。コスプレ参加が推奨されていたり、審判長の独断と偏見で決勝リーグにあがれる推薦枠があったり、男性が女性に本気で球を投げると怒られたり、ワイロが歓迎されていたり、どうしてそんな「ばっかばかしい」ルールで平気で楽しめるのか!というほどの設計になっています。しかし、そこがミソなのだと思います。それがとにかく面白いのです。面白いから人が来る。「くっだらない、ばっかばかしい」と思えるようなことをオトナたち本気で取り組むことが珍しいでしょう。その情熱と、そしてコンテンツ自体に人は魅力を感じるのかもしれません。

私の知り合いが、「伊那谷デザイン会議」という取り組みをしていて、地域活性系の助成金を得るほどの取り組みなのですが、それもまた「くっだらない、ばっかばかしい」。畑一面を使ってジオラマをつくったり、正月にゲリラ的に年賀状を各家庭にばらまいたり、そんな活動を通じて、外部と内部との人の交流が生まれる話も聞いたことがあります。日本の関心はグローバルを向いていますが、まだ発見できる魅力は日本にも眠っている。そこに目を向けることもまた、価値創造につながるのでしょう。

※ちなみに、画像検索をしたとき、私の検索結果の一番最初に出てきた写真は、私が関わっているチーム「湘南台冬将軍」のコスプレ部隊のものでした。

【『卒業政策』vol.1 】地域づくりの担い手とは – イルミネーション湘南台を通じて

 私が学部生としての一歩を踏み出してから最初に取り組んだのが、イルミネーション湘南台の活動です。大学の最寄り駅である湘南台駅は、小田急線を挟んで東西に分かれており、地下コンコースでつながっています。比較的新しい街でありながら、広島県広島駅よりも多い乗降客数を誇り、ベッドタウンとしてだけでなく、多くの大学の最寄り駅として使われる文教地区や、近隣の工業団地の玄関口としての機能を持っています。その一方で、伝統や文化と言われるものはほとんどなく、商店街や地域住民の努力と工夫に寄って、文化創造が行われている地域でもあります。活動では毎年冬場に、その東西の大通りや商店街にイルミネーションを取り付け、また地下コンコースには巨大クリスマスツリーを設置しています。すでに10年以上続く活動で、慶應SFCの学生サークルと、地域商店街、地域住民、行政担当者が実行委員会を組んで取り組んできました。

 入学したての僕にとって、地域活性化は興味のあるテーマの一つでした。地元の魅力に気づいてもらい、若い人たちの活気があふれる街づくりについて思うところがあったため、このプロジェクトは僕にとって最良の実践の場だと思った訳です。1年目には音楽ワークショップという企画を運営し、2年目には音楽イベントの実施、3年目は子ども対象の企画の運営を行いました。そうした企画の運営の他にも、地域の企業や商店のみなさんへの協賛金のお伺いや、イルミネーション取り付け、企画を運営する上での学校との折衝などなど、とにかく湘南台地域のことを本当によく理解できるほどに駆け回りました。

 大学生が中心となり、地域の皆さんを巻き込んで企画を運営していくことは本当に辛くもあり楽しいことでした。たくさんの地域の方とのつながりができ、顔を合わせれば挨拶するのはもちろん、イルミネーション湘南台以外の地域活動にも参画することもたくさんありました。たとえば、地域の子どもたちの夏キャンプだったり、商店街主催のイベントでの司会業だったり。それはそれはかけがえのないもので、湘南台は僕にとって第二のふるさとのようになり、たくさんの魅力を発見しました。しかし一方で考えていたことは、「大学生はいつか離れていく存在」ということです。

 あるとき僕は、「地域の住民の手によって回っていくことが最終ゴールだ」と実行委員会の中で発言したことがあります。所詮はよそ者でしかない大学生という存在は、高慢にならずに、愚直に泥臭く地域の人々と関わっていかなければいけません。そういう関係性を、それまでの先輩方は本気で築いてきました。そのおかげで、長い間続く企画になったことは確かです。しかし最終的には、それが住民の手に渡ってもなお継続することが大事だと僕は考えています。同時に、いつかはいなくなる存在であることを自覚した上で、最後まで責任を持った関わりが大学生には求められるのだと思います。

 そしてもう一つ、私が「いつかはいなくなる存在」であるからこそ心がけたことは、子どもたちの意識を地域づくりに向けることでした。たとえば、3年目には学校企画担当として、小学校の子どもたちに湘南台の好きなところの絵を描いてもらう企画を引き継ぎましたが、それまでの「好きなところ」というテーマを「ありがとう」に変え、自分たちの街の魅力に感謝するということを行いました。それ以上に心がけたのが、中学生ボランティアをどう巻き込むか、という点です。街の活性の担い手は、そこに住む子どもたちだと考え、イルミネーション湘南台の場を、単なるボランティアの場としてだけでなく、複数中学校のコミュニケーションの場や、地域の人と関わるトレーニングの場と捉えて、さまざまなことを、あまり指示せずに自分たちで考えて取り組んでもらいました。こちらが予想した以上に、自分たちから主体的に動いてくれた中学生ボランティアたちにとって、イルミネーション湘南台は「居場所」と化していたのかもしれません。

 その後、ある事情があって、慶應のサークルとしてのイルミネーション湘南台は解散することになります。が、地域住民の主導と複数の大学生の関与によって、イルミネーション湘南台は継続しています。そして現在の担い手は、高校生になった「中学生ボランティア」たちです。彼らは、もがきながらも地域の人々と関わり、まわりの友人を巻き込みながらイベント事業を運営してきました。いまや、そうしたコアメンバーのほとんどが、湘南台の地域住民の高校・大学生です。湘南台にとって、このことは大きな価値を持ったと言えるでしょう。地域づくりの担い手をどのように育てるかが、地域に問題意識を持つ「よそ者」大学生に求められることではないでしょうか。

【『卒業政策』vol.0 】「わたしのポリシー」に区切りをつける

去る3月22日に、慶應義塾大学の卒業証書授与式が執り行われました。2009年に入学した学年の学部生たち(および2007年入学で6年制課程に在籍した学部生たち)の卒業式には、当然にして私の姿はありません。来る3月29日が、私の学位授与式になります。SFCで学んだ、いわゆる09の学部生たちは私にとって想い入れの深い学年で、多くの友人もいますし、なにより「総合政策学の創造」のSAを務めたことからも思い出深い学年です。彼らは、学部の教員から直接に、総合政策学士、ないしは環境情報学士、あるいは看護医療学士のディプロマを得ました。

そういえば、私の代の卒業式は、震災により執り行われず、代わりに「インターネット卒業式」が行われました。今、Togetterを見て思い返すとすごいのが、送辞も答辞もアドリブで行われた点にあります。また「変わるメディアの責任はSFCがとる」という、我らがジュン・ムライ氏の発言もまた、名言でしょう。しかし結局、学位記を受け取ったのは、大学院生活がはじまってから。私にとっては、3.11の発災から5月の大学再開までには分断はなく、きちんと「総合政策学士」を得たという区切りを持つことができませんでした。それがいよいよ、大学院も修了となるわけです。

ところで、「卒業」は「なりわいをしゅっする」と書き、一方の「修了」は「おさめ、しまう」と書きます。どちらも、それまでに積み重ねてきた「なりわい」、つまり自分のしたいことやすべきことをきちんと修めて終えるという意味合いを持っています。すべきこと・したいことに区切りを付けるからこそ、次へのスタートが切れるわけです。この、すべきこと・したいこととして捉える「なりわい」は、ことSFCでの学びにおいては重要な位置を占めていると思います。「問題発見、問題解決」を標榜し、実践的な場面において起きている物事に着目して、アカデミックな方法に限らず究めつづけることが求められている以上、自分が何をすべきか・何がしたいかということは、常につきまとってきます。

その、各自の「何をすべきか・何がしたいか」こそが、ポリシー、つまり政策だと思うのです。SFCでは、「政策」を広義に捉え、単に政治や行政における公共政策のみに意味を見いださず、企業経営や非営利活動においても「政策」の概念を持ち込んでいます。ではその「政策」とはどういう概念かと考えれば、私はそれを「すべきこと・したいこと」と捉えます。すると全てに説明がつくはずです。SFCでは、学生や教員が、個々に自分の「政策」を持ち、研究や実践を重ねているのだと思います。その「政策」こそが、SFC生としての「なりわい」であり、卒業や修了は、そうした「すべきこと・したいこと」というポリシーに従って動いてきたさまざまな活動に区切りをつけることだと捉えています。

この『卒業政策』では、現行カリキュラムの前の課程における「卒業制作」をもじって、私が6年間を過ごしたSFCをいよいよ離れるにあたり、その6年間で私が「何をすべきか・何がしたいか」の基準に基づいて活動してきたことを振り返り、そこで考えてきたことについてのアカデミック・エッセーを執筆していきます。このアイディアは2011年の学部卒業の時にあったのですが、なんだかんだで流れてしまいました。本当はもっと早くから取り組むべきでしたが、のこり1週間となったSFC生としての時間のなかで、1編2000字を制限に、書けるだけ書いていきたいと思います。どうぞ、お付き合いください。

民の自立:さみしいから「共」に資するんだ

久々の更新は、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス「福沢諭吉と現代1」の最終課題としてついさっき提出したものです。ちょっと、読んでほしいなぁって思って、そして自分の思考の足跡のためにも、ブログに貼ることにしました。今学期は、修士論文で死にそうになったため、SFCの修士科目をはからずもドロップアウトしてしまいました(反省しています)。しかし、この講義だけは、6年間を慶應の湘南藤沢キャンパスで過ごしたことの集大成として捉えたかったので、何度か欠席しましたが大切にしていました。

もうほんとに、SFCを卒業しなきゃいけないんですよね。


「民の自立とは、一方ではさみしいんじゃないだろうか」

最終講義で私が提示したことである。しかし、そうしたさみしさをみじんも感じられないほどに、私が講義を聴いたゲストスピーカーの方々は、それぞれに輝きを持ちながら自立を語っていた。スルガ銀行の岡野社長は自立とは頼らないことだとおっしゃった一方で、「おたがいさま」を提示していた。自立とは、ただ「誰にも頼らずに一本立ちすること」なのだろうか。この解釈を誤ると、全てを独りで背負い込むことにつながってしまうかもしれない。
独立自尊、自我作故、そうした福沢諭吉の残した概念は、単に独りであれやこれやとすることを指している訳ではないだろう。現に福沢諭吉は、慶應義塾の学びの中核概念に半学半教を位置づけている。一歩先をいくものが教え、まだ未熟のものが学ぶ。しかしここには「独りであれやこれや」ということが現れていない。とすると、福沢諭吉の示した「民の自立」とは、個々人が独りでも生きていけるようになる生き方の問題だけではないのかもしれない。

リビング・ワールドの西村さんの回は、サンフランシスコの街並の写真が導入部であった。ここで示された、公・共・私の領域の区別が、「民の自立」とはどのようなものかを捉える手がかりになると考えている。彼の話の多くの部分は、相手を・自分をどんな存在として見ているか、ということがらに軸をおいていたように思う。人とのかかわりあいにおいて重要なのは、自分が相手をどんな存在として見ているかであろう。それはとりもなおさず、自分が自分をどんな存在として見ているかにつながってくる。
社会とは人間の集合体であり、むしろそれ以上の意味合いを持っているものであるが、しかしその空間は明らかに「私」ではなく、相互行為によって調整だったり協力だったりを繰り返す必要がある場所である。時には衝突もするが、それすらどうにか折り合いを付けなければいけない。それこそが「共」の空間であり、だからこそ余計に、接する人間という存在をどう見るかということが必要になってくるだろう。

自立は、自分自身で立つということである。それには、立てるだけの能力を有しているかどうか、自分自身で分かる必要があるし、自分自身で立つ勇気の裏にある自信は、そうした能力を自覚しているからこそ出てくるものなのかもしれない。時にドット・ジェイピーの佐藤さんは、大学生時代に「自分が何をしたいか分からない」ことから社長のかばん持ちに飛び込んだ。それが現在の彼の活動に至るまでにおいて、それらの活動のミッションは後づけで、実際は周囲からの求めによって動いてきたと彼は語った。その彼が「立てるだけの能力を有しているかどうか」を自覚していたのかどうかは賛否が分かれるだろう。それでも言えることは、彼は周囲の人々のニーズに応じて自分が動くという能力を有していたし、「なにがしたいか分からない」ということを自分で理解していたということである。

「私」の自立とは、おそらく自分自身を理解することなのだろうと考える。その一方で、自立している人はどこか「共」に資する姿勢を見せているように感じる。「じぶんごと」に手一杯になるだけではまだ自立しているとはいえず、「じぶんごと」に余裕が生まれ、その部分を「共」に還元していくところに、「民の自立」の本質があるのではないだろうか。
岡野社長が「頼らない」とした相手は「公」であろう。「民」の対概念もまた「公」である。しかし、「民」は「私」を指しているのではなく、むしろ「共」を指しているように思える。玉井先生が諭吉と現代2の席で示した「新しい公共」の説明は、公に担いきれなくなった部分を民が担っていくことで歳出をそもそも押えようとする動き、というものだったと記憶している。この考え方に基づけば、「共」が「公」に頼らずに社会を動かすことが「民の自立」と呼べる状態なのかもしれない。この点で、岡野社長の示した「頼らない」ことと「おたがいさま」は相反しないということが分かる。というよりも、「頼らない」と「おたがいさま」は次元が違うことが分かる。

一身独立して一家独立、一家独立して一国独立。学問のすゝめで福沢が示した学問の意義は「立身出世」の4文字に集約されるだろうが、それは「私」空間における話ではないと思えてくる。福沢が目指したのは、学問を通じて「共」に資することのできる人財の輩出だったのかもしれない。ただ、そうした「共」に資する人財となるためには、単に「独自に」なるのでは意味がない。むしろ「さみしい」と感じるくらいに他者との関わりを持ち、そうした他者に資することを求めるところにこそ、「民の自立」の担い手が生まれるのだろう。

さみしいからこそ「共」の空間に資する。そこに自立を見いだした、6年間の締めくくりであった。

「研究デザインのはなし」のスライドをアップする

慶應義塾大学SFC古石篤子研究会に所属している私は、大学院2年生の最終学期に当たり、なにか研究会のみんなに、そして研究会自体に貢献したいな、と思っておりました。個人研究が主体の古石研でしたが、私自身3年生の春から所属し、大学院に入ったあたりで、うちの教授が「多言語活動」というものに興味を示し、取り組みだします。

これは、チャンスだ。そう思いました。

個人研究をしているだけでは、なかなか一丸となって研究会に臨むという事が出来ないし、継続履修にもつながらない。なにか分かりやすいプロジェクトを前面に出す事で新規履修者も獲得出来るかもしれない。なにより「多言語活動」という活動がおもしろい(詳しくは、古石研FBページをご覧ください)。

「多言語活動をプロジェクト化しましょう」と先生に伝えました。それは、研究会として多言語活動プロジェクトにフルコミットする訳ではなく、あくまで「研究の一例」として多言語活動プロジェクトにみんなで取り組み、そこから得た知見を学期の後半で個人研究に活かしましょうよ、という提案でした。理論を文献でおさえ、活動案を実際に制作し、また子どもたちへの効果を評価する、という一連の流れを、個々に異なるテーマでの個人研究に活かせる、ということです。

んなわけで、とくに最後の学年である2012年は、このマインドで研究会に貢献しようということで、KJ法を応用した質的データ分析のワークショップと、ORFヘの出展プロジェクト、そして研究デザインに関するワークショップないしプレゼンを学部メンバーに対して提供してきました。

特に、研究デザインと分析WSはポイントだと思っています。なぜなら、「やり方も知らないのにいきなりは研究出来ない」、いいかえれば「経験も浅いのにタームペーパーを書くのはツラい」ということなのです。ある種のマインドセットがないと、タームペーパーの執筆というのはツラいもの。だからその考え方と方法を研究会内でシェアしようと思ったのです。

以下のPDFは、つい先日「研究デザインのはなし」と題したプレゼンをした際のスライドです。このスライドの内容は、僕自身がこれまで数本のタームペーパーと卒論を書くなかで考えてきた事をまとめたものです。しかしこれらは自力で身につけた訳ではなく、いくつかの授業の影響があります。例えば清水唯一朗先生の「方法論探求」や金子郁容先生の「概念構築(リサーチデザイン)」、山田ズーニー先生の「プレゼンテーション技法ワークショップ」といったものです。つまり、すべてSFCで得てきたことなわけです。

おかげさまで僕も、こんなのが書けていっぱしに学部生にそれを伝えていけるだけになりました。まだ道半ば、修論を頑張らねばならないのは当然として、研究会において共有知を蓄積していくことに精を出したいと思います。すべては、メンバーそれぞれにとって、納得のいくパフォーマンスのために。

子ども国会の想い出

この文章、本当は9月のアタマに書くつもりで、最初は9月1日の社会言語科学会の道中でキーボードをたたいていましたが、いつの間にか10月になってしまいました。とにかくそのときも今も、感じることは、夏が早く過ぎた、ということです。

この夏は、僕にとっては学生最後の夏休み。多くの学生は海外に行くとか、遊びまくるとか、そういう過ごし方をするのでしょうが、僕の場合はちょっと違っていました。特に7末〜9月には、私にとって想い入れの深い出来事がいくつか起こりました。そのことをまとめたいと思います。最初は、忘れもしない12年前の再来について、つまり、参議院主催・子ども国会にOBとして招待を受けたことをお伝えします。

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