来週頭にある、Music Nightというイベントで、僭越ながらMCをさせていただくこととなり、そのリハーサルをやっていた。その後、英語インタラクティブ・フォーラムの研究のために、アンケートを印刷して封筒に封入していった。気付けば21:30で、いつもの月曜日と変わらぬ帰宅時間となった。日付を超えれても、家にはいない。
また、自分が生まれた日の0:00を、自宅外で過ごすことになる。20・21・22と、もう3度目だ。昨日、吹奏楽サークルのオーディション応募用の映像撮影を終えたが、それでも帰りが日付を超えるのは、いつもの通りの生活がいたについている証拠だ。
そういえば、そのサークルの同学年者から、コップと肩叩きをもらった。院生になる僕への誕生日プレゼントだった。コップには、油性ペンでの寄せ書き。本当にありがたい。
私には悪いくせがある。人の誕生日を覚えないことだ。だから、どうしても贈り物を送れない。代わりにいつも、贈り物をもらう方の立場が多い。非常に恐縮する。その点で、mixiは便利で、友人の誕生日が近いことを知らせてくれるのだが。ともかく、私は誕生日に対して、至極受身であることが多く、為手側になることは稀である。
同じことは、誕生日に家で過ごすことなく、親家族に育ててもらった感謝を言わないあたりにも通じる。結局自分は、世界の中心は自分であり、自分のために自分を生きているにすぎない、自己中心主義の塊みたいなもんなのだ。他人と丁寧につきあうことを忘れてしまっているようでもある。感情線が孤を描いていても、結局思いやれていないのは、21歳になっても相変わらずで、それで本当に迷惑をかけたことがあった。
21歳の夏、僕は、自分のことさえ顧みていればよい立場から脱却しなければならない責任を得た。しかしながら相変わらずなままで、相手を振り回したり悩ませたり怒らせたりしていた。それは、ことの段落で特に予期している相手以外にも同じことを言えるのだが、とくにその相手に対しては悔やまれるほどである。一方で、その相手の存在が故に、将来の人生のことを、余計に考えるようになった。自分は何をして稼ぎ、どのような家庭で過ごし、どう人生を設計して行くのか。それは単に、他者を顧みなければならない責任が起きたからではない。21歳という年齢が故でもある。
21歳は、人生のターニングポイントである。同じ21歳世代では、すでに社会にでている人が半分以上、そして僕の周囲では、大半が職探しに奔走し、21歳の夏から秋、冬、そして春と、多くの友人が、直近の未来の人生ステージの場所を探すために、はるか遠くまでに渡る人生の設計図づくりに頭を悩ませていた。そのムーブメントは、例外なく僕にもやってきて、僕は遠い未来に渡る自分のミッションとそのためのツールである職業の見通しを考えた。
結果、僕は一切の私企業・公的団体に対して、金銭を対価に仕事をするためのエントリーシートを提出することはなかった。出した答えは、大学院に進んでまだ学ぶことだった。しかし、その決定が早からず遅からず、そのせいで、周りが忙しく奔走する時期に、本当に何もしなかった。本当に、何も。そのせいか否か、21歳の後半は、後ろめたさと不安の連続だった。院生候補にもかかわらず、ろくに研究成果をあげる訳でもなく、勉強に勤しむ訳でもなく、何もしなかった。周りが奔走しているのに、自分はこれでいいのか。周りが奔走しているのなら、その分の働きをすべきなのに、何もしていないのはいいのか。そして、バカみたいに高い学費も、後ろめたさを助長する。そして、今年度になって、4年にもなって、かつてない無気力さを得た。かつての自分からすれば、腐敗が進んだ。
だからだろうか、21歳は、それまでに比べて少しは落ち着きを見せたものの、以前としていろいろなことに取り組んだと思う。吹奏楽サークルでは副代表だったし、地域活性化活動では企画担当もした。某SFCの未来をつくるプロジェクトでは、年が開けて、名ばかりながら代表代行を拝命した。とりあえず忙しくすることで、どうにか自分を保とうとする癖は、未だに治っていない。本当はもう少し失敗に学んで、集中力を持つことをしなければならないのに、好奇心を持つあたりはまだ子どもなのだ。
でも、もう子どもでないのだ。若くはないのだ。大学では、もう褒めてくれる先輩的な立場はいない。それどころか、後輩ばかりである。徐々に、「あなた若いのにしっかりしてるわね」と言われる年齢から離れだしている。僕が動機付を保ってきた要因である、年長者からの褒め言葉を、だんだんと失いつつある。でもなお、若さとか子ども性とかのなかで、大人に対してアクションを起こして行きたいという欲望は果たされていないらしい。だから、歳を取ることの現実を受け入れたくない。年齢は重なるけれど、僕は僕のまま。高校生だった自分、中学生だった自分、小学生だった自分から、今の自分を比べても、中身は変わっていない。レッテルが変わっただけだ。でも、あの頃憧れていた先輩たちとかお兄さんお姉さん世代とかと、同じ世代にたっているかといえば、まったく成れていない自分がいる。本当に僕は大人の階段にいるのだろうか。
みんなは、21歳の僕を、変わったというのだろうか。久々に会う人ならそう言うだろうが、でも級友なら変わらないと言うだろう。とかく、日々生活をともにする親は、変わらないままに、変化していてもその変化に無意識的だろう。考えてみれば、弟は中3、妹は中2、奴らはまだ僕のなかでは小学生だったのに、ふと気づいた時、年齢の高まりを感じたことがある。そんなことが、親や祖母にはあるのだろうか。そして、21まで育ってきた僕に、何を思うのだろうか。
死んだ母は、21の僕がこうなっていたことを、予測していただろうか。こうなったことを、喜ぶだろうか。そもそも産み親が亡くなっていることに対しては、実は無自覚だから、感謝のかの字も、悲しみのかの字もないのが正直な所なのだ。なんと薄情なのだろう。でも、いまふと考えた。22年前の今日のこの時間、天国の母親は、人生初めての陣痛に苦しみながら、東京・豊島区の病院にいたんだ。性への興味段階である思春期をある程度超えて、様々なことが実感として理解出来るようになったいま、22年前の母親の陣痛が、どのようなものだったかを考えると、妙にリアルである。
もうすぐ、誕生日当日だ。
もういい年齢だから、いままでみたいに、人から祝ってもらえたりプレゼントをもらえることに喜ぶだけの、気楽な一時を過ごすのはやめよう。
みんな、誕生日になると、周りの人に感謝しているという言葉を書き連ねる。当然のことだし素晴らしいことだけど、感謝をどう表し、それをどう還元すればいいか僕には完璧な答えがない。そりゃ、僕のこの人生と人格の形成過程では、たくさんの人と経験との出会いがあった訳だから、感謝は絶えないが、そうした所で還元するすべを知らない。それは、僕の周りの人が誕生日の時に全員におめでとうということであろうか、違うだろう。僕は、そうして考えながら、行動を取ることを放棄して、結局自分に収束して行くことになると思う。
でも、それだって重要だ。腹を痛めて産んだ結果としての存在であることをリアルに認識できるようになったからこそ、いままでに起きた事を思い出しながら、腹を痛めつけてまで生まれてきた意義があったのかを考えるのは必要なプロセスだと思う。そして、今後の生きる意義とは、生きるミッションとは何かを考えるのはもっと重要だ。
進路のターニングポイントにあって、生まれるということをリアルに感じながら、同時に子どもらしく、これから先の人生のミッションを考えながら、少しだけ他者に丁寧に感謝する。
これって、21歳最後の夜であっても、何事もない、いつもと変わらぬ夜にする、いつもの思考なのだろうと思う。やはり今夜は、何事もなくすぎていく、いつもの夜だ。