箱根山学校、最後のジャーナリング

2024年 9月 20日(金)から「箱根山学校」というワークショップに参加した。

過去、3回参加したことがあるこのワークショップは、岩手県・陸前高田市にある箱根山という山の中腹にたたずむ箱根山テラスという宿泊施設で行われる。箱根山テラスは、海から吹く・山から吹く、そんな風の行き来を感じられる場所で、自分にとっても「定点観測」をするのにぴったりな場所だ。

そもそも「ワークショップ」と呼んでいるのも、周囲へのわかりやすさのためであり、上のリンクから読めるnoteにもこんなことが書いてある。

この学校は、なにが学べるのかよくわからないまま10年目をむかえようとしています(正確にはコロナを挟んで11年目)。わかるとか、成長するとか、出来るようになるといった即物的な効果・成果を求められがちな時代に、なにやってるんでしょう。でもそういうのはもう十分じゃないですか。人のことを「変えよう」とする本やイベントや情報が多すぎる気がします。ほっといてくれ!

中心メンバーである、友廣裕一さん、長谷川浩己さん、三原寛子さん、長谷川順一さん、そして西村佳哲さんがつくる(いや、つくってすらいない?)場において、集まった人たちがめいめいに語っていくことから、集まった人たちがめいめいに何かを学んだり学ばなかったりしていく時間。

そこでは私はいつも、自分自身を見つめてきた。

絵を描くわけでもないのに、スケッチブックを持ち込んで、それで話をひたすらペンでメモしていく。読み返すわけでもないが、書き込むことで話が入ってくる感覚。そうしてひとしきり人の話をメモした後、それを読み返しながら、自分の内省に手の動きを任せてペンを走らせる。そうしてジャーナリングをする。

書いたジャーナリングは、過去のものはこのシリーズにまとめている。

箱根山学校の、自分の記録

10回という区切りを設けて行われてきた箱根山学校。いよいよ、そこでのジャーナリングができるのも最後。山を降りてから1週間経ち、スケッチブックにびっしりと書き出した文字たちを、あらためてなぞるように、テキストに落とし込んでみた。

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2022年・箱根山学校でのジャーナリング

明日から東北・三陸沿岸に前入りして、2024年 9月 20日(金)から「箱根山学校」というワークショップに参加する。

過去、3回参加したことがあるこのワークショップは、岩手県・陸前高田市にある箱根山という山の中腹にたたずむ箱根山テラスという宿泊施設で行われる。箱根山テラスは、海から吹く・山から吹く、そんな風の行き来を感じられる場所で、自分にとっても「定点観測」をするのにぴったりな場所だ。

そもそも「ワークショップ」と呼んでいるのも、周囲へのわかりやすさのためであり、上のリンクから読めるnoteにもこんなことが書いてある。

この学校は、なにが学べるのかよくわからないまま10年目をむかえようとしています(正確にはコロナを挟んで11年目)。わかるとか、成長するとか、出来るようになるといった即物的な効果・成果を求められがちな時代に、なにやってるんでしょう。でもそういうのはもう十分じゃないですか。人のことを「変えよう」とする本やイベントや情報が多すぎる気がします。ほっといてくれ!

中心メンバーである、友廣裕一さん、長谷川浩己さん、三原寛子さん、長谷川順一さん、そして西村佳哲さんがつくる(いや、つくってすらいない?)場において、集まった人たちがめいめいに語っていくことから、集まった人たちがめいめいに何かを学んだり学ばなかったりしていく時間。

そこでは私はいつも、自分自身を見つめる。

絵を描くわけでもないのに、スケッチブックを持ち込んで、それで話をひたすらペンでメモしていく。読み返すわけでもないが、書き込むことで話が入ってくる感覚。そうしてひとしきり人の話をメモした後、それを読み返しながら、自分の内省に手の動きを任せてペンを走らせる。そうしてジャーナリングをする。

書いたジャーナリングは、過去のものはこのシリーズにまとめている。

箱根山学校の、自分の記録

だが、2022年に参加した回のジャーナリングをブログに書き起こすのが、2年経ってからの旅の前日になってしまった。奇しくも「箱根山学校」は、2024年を最後に区切りがつく。

ちょうどいい。ちょっと思い返すとしようか。

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道に迷う不安、「いつもの」を選ぶ安堵

よく、道を聞かれる。

7月に宮崎を訪れたとき、夜の宮崎駅前で「橘通はどういったらいいですか?」と出張者に聞かれた。「地元の人間じゃないんですけど、橘通はここをまっすぐ行ったら着きます」と案内した。自分でも思う、なんで案内できるんだよ。

2ヶ月前にインスタで紹介した、高校以来の友人である上田さんのところで髪を切ったあとのこと。彼女の店舗は新宿西口を大久保方面に歩いた、一蘭の建物にある。軽い小雨が降る中だったから、大江戸線のD5口から地下を通ってJRの駅に出ようと歩いていた。アップダウンはあるが、それは仕方ない。そうして小田急HALC手前のエスカレーターを登ろうとする少し前、「すみません」と妙齢の女性から声をかけられた。

「伊勢丹はどこですか?」、その質問に咄嗟に「こっちじゃないです」と答えた。私がJR側に向かおうとする一方、対面して歩いてきたその方。その方向はあきらかに伊勢丹から遠ざかっている。小田急百貨店すら背にしている。「あら、分かんなくなっちゃって」とおっしゃるその方に、「途中までいくのでご案内します」と声をかけていた。

事実、わかりやすいところまでは一緒だった。大江戸線の新宿西口駅のエスカレーターを登って、丸の内線の改札が見えたら、そこから東に続く東西地下通路をひたすらまっすぐ行けば、いつの間にか新宿三丁目の駅にまで到達し、左手に伊勢丹の入り口が見える。それが分かっていただけでなく、家に帰る気でいたので、西口からJRに入らずに、地下通路から東口に至ったとしても、埼京線のホームまでの歩行距離はさして変わらない。瞬時にそう判断して、私が別れるところで「あとはここをずっとまっすぐです」と言おうと思っていた。

結局、その女性は丸の内線の改札まで来たところで「あ、あとは分かります」と言っていた。その時点で西口方面に分かれていけたはずなのに、結局自分は東西地下通路を東口に向けて歩いていた。女性の少し前を歩いているつもりだったがいつの間にか距離が離れてしまい、振り返って会釈をして自分の歩行ペースを取り戻したとき、すでに地下通路は半分より東寄りまで至っていた。

家に帰ってから昼食を、と考えていたが、新宿に出てきたことをもったいなくも感じていた。合理的に最短距離を取るなら東口に来る必要性はない。しかし、「案内せねば」というおせっかいから無駄に東口に来てしまった。たいして強い欲求などないのに、ロールキャベツシチューのアカシアに足を向けていた。正直、惰性である。

外食をするとき、私は、あらたな店の開拓より、見知った店のリピートを好んでしまう。日々の食事であっても、同じものを食べても飽きない人間だ。だから、新宿ほど大きな街のなかにあって、「ここにいくか」と思い立つ店は限られる。どこに何があって、今いるところからどういけばそこに辿り着けるかの見通しをつけるのが得意なほどには新宿の街を知っていても、安心できる「いつもの」の数は、少ない。

例の女性も、「新宿といえば伊勢丹」というほどに「いつもの」を感じる場所だったはずだ。だけど「新しくなって、ダメね」というぼやきが、その道中を迷路に変えてしまったことを感じさせた。「昔は、小田急を出てまっすぐ行けば着いたのに」、分かっているはずの街で感じる不安に、図らずも約2年半前、ソーシャルアパートメントに引っ越してすぐ、上田さんのもとで髪を切った後に新宿の雑踏で感じた不安を思い出した。

ソーシャルアパートメントに暮らしています。2(ネイバーズ東十条の暮らし)

よく道を聞かれる。おそらくだが、顔つきが安心感を与えるのだろうか。声をかけても怪訝な顔をされないと思われているんだろうし、事実、聞かれた場所への行き方はだいたい指南できている。迷う人の、その迷いを晴らしたい、という願いみたいなもんは、そうそう自分からは剥がれないようだ。だからこそだろうか、食べるものでさえ、未知の店に迷うくらいなら、既知の安心の店をたよりたくなる。

そういって、アカシアにつき、ちょっと並んでから一人席に着いて困った。ロールキャベツシチューは食べるとして、メインを何にするか全く考えていなかった、というか、別にどれでも良かったのでかえって迷った。そんな折、今日のおすすめが「豚ハンバーグステーキとロールキャベツシチュー、ごはん付」だった。「豚ハンバーグ」という、ちょっとした違和感の残る耳ざわりと、四角くて白くて薄いビジュアル。ちょっとした冒険が、そこにあった。むろん、頼んで食べてみたら美味しかったのは、言うまでもない。

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コミュニケーションをなんだと思っているんだ (シークレット・ライター #03 – 作品12)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。
なお、作中において槍玉に挙げられている「あいつ」は筆者・遠藤自身であり、特定の他者に向けられたものではありません。

テーブルに座ってごはんを食べているとき、ぼそっと愚痴っぽくつぶやいたら、突然スイッチを入れてきて、根掘り葉掘り聞いてきやがる。いちおう「スイッチ入っちゃっていい?」とは聞いてくるけど、でもそもそも、こんな話、みんながいるところでするものでもないだろう。

しかも、けっこう質問がするどい。というか、あんまり考えたことのないことを聞いてくる。すぐに答えられるわけないじゃないか、そんなもん。それに、誰が聞いているかもわからないところで、本音で答えられるとでも思っているんだろうか。本音なんて、なかなか出せないよ。

たしかに、悩みはあるし、そしてそれを話すこと・吐き出すことができるのは、この家に住んでいて「ありがたい」と感じる。いろんな生き方をしている人がいて、それぞれに価値観が違っていて、だからアドバイスをもらえると、考えの幅が広がる感じがする。

でもそれって、すぐにできるってもんでもないじゃん。どっかに出かけたり、飲みに行ったり、一緒にごはんつくったりして、それで少しずつ相手のことを知れるから、話したいって思えるんじゃないか。あいつ、いつもただテーブルにいるだけじゃん。みんなで飲んでても、あんまり絡んでこないし。

百歩譲って、話を聞いてもらえるのはありがたいし、考えたことがない質問をしてくれるのは、考えを整理するのに役には立っていると思う。でも、別に今そんなテンションで揺さぶられても困るし。それになんか、「スイッチが入った」状態で、なんかズケズケと入り込まれてくる感じがするんだけど。

いや、たぶん本人としては、自分のためを思って聞いてくれているんじゃないかとは思う。なんとなくそれは伝わるんだけど、それ、実際「あなたが知りたいことを聞いているだけなんじゃない?」なんて思ってしまう。いま答えていることって、自分が「ほんとうに話したいこと」なのか、自信はない。

いちおう、アドバイスを言いたそうだから、「どうしたらいいっすかね」と聞いてみると、逆に質問で返される。こっちが聞いてんだ、これ以上聞いてくんな。「思ったこと言っていい?」と聞かれたから「どうぞ」って促したら、めっちゃ長く語ってきた。長いよ、そんなに長いやつ、求めてないって。

そしたら流れで「俺の場合はさ」とか言って本人の話をし始めた。これ、こっちに対するアドバイスをしているんじゃないの? これもしかして、実のところ本人の話を聞いてほしいだけなんじゃないか?人の話を聞くふりをして、人に話を聞いてもらおうとするのは、あんまり気持ちがいいもんじゃない。

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。

そういえばこの前、ラウンジでおしゃべりしてたときも、なんかずっと同じ話題で話し続けている感じがあったな。気軽な会話でそんなにずっと同じ話題しゃべらんて。そうかと思えば、全然会話にも入ってこれない時もあるし。なんだろ、無理して話題についてこようとしてるというか。

あと別の時も、なんかしゃべってて、ずっとなんか頑張って質問されている感じがした時があったな。気を遣われているっていうか、なんとかして会話続けようとしているっていうか。そんな頑張らんでもいいのに。空気読もうとしてるけど、空気読めてないっていうか。バランス悪いんか。

もっと自然に振る舞えばいいのに。無理して話そうとしなくたって、別にこっちがそのモードだったらこっちから話するし、そのモードじゃなかったら静かにしているのを大事にしてほしいし。それにさ、聞いてほしいんだったら、素直にそう言えばいいじゃん、こっちに問いかけてその状況にしなくても。

ここにいると、みんなやさしくてあったかくて、だから寂しく感じなくて済んでるんだけど、だからといって、みんなと仲良くできるわけじゃない。合う人もいれば合わない人もいて、だからコミュニケーションの濃さも、グラデーションになるはずでしょ。別にそれでいいじゃん。

なんかあいつは、よく言えば、みんなとフラットに接しようとしているんだけど、裏を返せば、みんなと仲良くなろうとしていて、みんなから好かれようとしていて。でも、それ無理じゃん、って。平等に均一に、同じ濃さで関わるって、そりゃ無理だよ。コミュニケーションをなんだと思ってるんだ。

別に、みんなで盛り上がらなきゃいけないわけじゃない。別に、みんなと仲良くしなきゃいけないわけじゃない。無理してそんなことして疲れるくらいなら、やらなきゃいい。好きなように居ればいいだけのことなのに、それをこじらせて「うまく溶け込めてない」なんて思われても、知ったこっちゃない。

そういえば、あれだ、「みんしる*」だってそうだ。たぶん本人は、自分のことを聞いてもらうのが好きだから、人を選ばずに語るってのは得意なんだと思う。でも、みんなそれが得意じゃないし、みんなが自己開示をぽんぽんできると思ったら大間違いだ。自己開示は、人と場所を選ぶもんだろ。
*みんしる=物件内で行われるトークイベント、住人が自分自身のことを形式フリーで語ることができるイベントを月イチで開催している。

無理やり引き出されることをしなくたって、自分なりのやり方で、自分なりの心地よさで、この場所に溶け込んでいけるんだ。あいつだって、そうすればいいだけなんだけど、でもこっちの心地よさも尊重してほしい。ペースに合わせる、までしなくても、合わせようと様子を見てくれればそれでいい。

自分のことを基点にするのがコミュニケーションなのか? 相手ありきなんじゃないのか?

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。


「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

Beyond language (シークレット・ライター #03 – 作品27)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。

Over twenty-five articles from sixteen writers living in this social apartment reflect how diverse our share mates see their lives and communication here.  However, the language itself is still homogeneous, Japanese.

Japanese, which is one of the most difficult languages to acquire, is very beautiful to express the writers’ inner feelings and thoughts because of its diversity of vocabulary, ambiguity by absence of the subject, and variability of sentence structure.  And because of these, the articles under this exhibition called “Secret Writer” are striking readers’ hearts.  But, the experience of being moved by each article is limited only for fluent Japanese readers.

Here, I feel unconscious-exclusiveness.  Yes, even I, both the writer of this article and the organizer of the exhibition, excluded other languages users unconsciously.


There are several reasons why I organize the exhibition.  One is that there are many residents here who like to write essays or even work as professional writers, and I wanted to read their essays which reflect their feelings and thoughts through the social apartment lives.  Each writer has to hide their name from each article under the regulation of the exhibition, and this makes readers think who to write, and therefore communication among the residents occurs.

On the other, and moreover, I wanted to express myself through essays, not by verbal communication.  This is because I, who some residents recognize as talkative, feel lonely or being a minority in the community here, and this kind of my negative perspective for being a part of this community wouldn’t be appeared through the daily communication even I don’t hesitate hiding.  Because I can hide the name as a writer, I can express what I want to express more freely.

Surprisingly to me, not only me but also other writers put their inner feelings into the essays with their own way of the expressions.  Readers, and they are our residents in other words, encountered different aspects of writers which couldn’t be appeared in the daily conversation on the 2nd floor.  This is what both writers and readers enjoyed the exhibition the most.  But, we cannot share this delighted “re-discovery” of the residents here with non-native readers of Japanese.


I was so lucky that myself in childhood was both talkative and interested in acquiring English, now I can enjoy talking with residents from other countries even they cannot speak Japanese fluently.  One thing to add here, residents from other countries put so much hard work into learning Japanese and their fluency get tremendously better day by day.  I even appreciate, as one person fostered in Japan, their relentless effort for acquiring Japanese language and basic interests for the culture and habit in Japan.

Because of that, I feel a disappointment to myself that I couldn’t put the consideration for non Japanese users even though I hope to create a world where all people share the ideas of inclusion.  I always state that knowing and giving respect to each other are the basic keys to create a better future of inclusion beyond each difference.  The life in this social apartment is the right place for the actual practice, I suppose.


I cannot truly understand, and should not predict what the non Japanese users here feel or think.  But I imagine that living in a different country where one’s native language is limited to use makes one’s heart feel alone or being a minority.  But I strongly believe that we, as residents here, can melt such feelings by sharing a precious time in the same community.  Language itself is a one of the tools, but sometimes verbal communication doesn’t need the fluency of the language.  The interest and desire for knowing each other can go beyond language.  But on the other hand, we need to understand that languages themselves become the barrier for the desire to understand others.

The old proverb says “When in Rome, do as the Romans do”, but this couldn’t be a reason that native Japanese users here don’t put consideration to the non Japanese users here.  Or, even the distinction between Japanese users and non Japanese users is not appropriate for the mutual understanding as people under the shared community here.  I want to make the opportunity for participation into this community open for everyone.  And to enable this, I don’t want to make the opportunity closed into the Japanese language.

This is why I wrote this essay, with my regrets for less consideration for international members here.


I want to see each of you as individuals who have different interesting life-stories, many aspects of the life, and shared interests among the life in the social apartment.  We can be life-long “share mates” even though we spend a short time together.  At that time. our friendship can be beyond language, I believe.

So I promise you. I won’t make the language itself a barrier to our communication.  I won’t let you alone.



「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「言語化」を言語化する:相手の言語化を促すための 「いっしょにみとおす」問いかけ

比較的言語化が遅い人への接し方が不得意なんだけど、なんかコツを掴みたい

という悩みが、知人からもたらされた。思わず私は

出るまで待ってあげてくれ

とレスをしてしまった。

これが思いのほか自分の思考をぶん回してしまったので、他に書くべきことがある最中だが、結局記事にしてしまった。

「言語化が遅い人への接し方が不得意」には、おそらく2つの課題が含まれていて、それは

  • 相手からの言葉による返答が遅い(ので俊敏性を上げたい)
  • 返答が遅い人の対応がもどかしい(ので適切な接し方が知りたい)

ということだと思う。

で、ここでポイントだと思うのは、相手の言語化力をどう伸ばすか、ということと同時に、自分の接し方の部分をどう最適化できるか、という双方をセットで行うことの大事さだ。

当方、障害者雇用を担当している。また、教員だった経験もある。なにより、長らく続けてきたブログのおかげで、時折「言語化おばけ」と言われることもある。聞く側の私の言語化力の高さに比して、話す相手のそれとに非対称性があるようなケースも、多く経験がある。そして、私も、もどかしさを感じることがあった。

ではどうしてきたか。ここいらで少し棚卸しをしてみようと思う。

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「夢があるから、がんばれる」 – ひさびさにとある広告に出会った話

 

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千代田線、日比谷駅。小田急の車両の直通電車に乗っていた私は、扉を見て思わず、降りるつもりだった電車にまた乗った。扉に貼られた、鶴巻温泉病院の広告が、胸を打ったからだ。

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土曜の昼下がり、東十条の洋食店で – やさしさとあたたかみについて

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「ハンバーグ食べるか?」「オムレツ食べるか?」

土曜の昼下がり、店主から発される、チャキチャキとした、しかし優しさに満ちた問いかけに、店内はみなこう思っただろう。

「お子様ランチ、あるんだ・・・」

この記事は、Instagramへの投稿を転載したものです。

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障害当事者が、仕事を通じた社会貢献を実感できる未来のために(インタビューしていただく06)

遠藤さんとは、チームビルディングの手法を学ぶ講座で知り合いました。その後、Facebook上で、人事から教師へ、教師から障害者雇用へと、様々な経験をされている姿をお見掛けして、「面白い活動をしている方だなぁ」とずっと思っていました。それで、お声がけして私の関わるコミュニティに講師としてきていただいたり、また一瞬ClubHouseが流行った際にお話しさせていただいたりと、3-4年に1度だけかかわりがある不思議な関係が続いています。今回も「インタビュー」という新しい形での接点が生まれたことをうれしく思っています。

今回は、そんな遠藤さんが取り組まれている障害者雇用に対する課題意識と、その背景となるご自身の過去について聞きました。「障害当事者と働くことでたじろぐのは、障害者自身ではなく健常者です」と語る遠藤さんの感じる怒りとは――。

この記事は、このブログ enshino.biz の所有者である遠藤忍が、自らの「とっちらかった思考を整理してもらいたい」と知人に呼びかけたことに端を発する企画『インタビューしていただく』の一環で書かれたものです。

著者紹介

編集・執筆:竹林秋人
2021年『嫌われる勇気』の著者として知られる古賀史健氏のbatons writing collegeを受講、以降インタビューを中心にライティングを行う。また、会社員として、素材メーカーで医療機器領域の戦略策定・新事業開発に従事。

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走り続けるenshinoは何にぶつかり、何を見出すのか (インタビューしていただく04)

遠藤さんとAngelaとの出会いは宮古島。2020年に実施された人事ごった煮会を通じてオンラインで知り合いました。その後もなぜかオンラインか宮古島でしか会わずに4年…という不思議なご縁の中、今回はキャリアについて言語化したい遠藤さんのリクエストにお応えして、遠藤さんについて語らせてもらいます。

他人からみたら順風満帆にキャリアを歩まれているように見える遠藤さん。そんな彼でも心の中に感じている”見えない壁”のようなものは何なのか。ほんの少しだけ紐解かせてもらいました。

この記事は、このブログ enshino.biz の所有者である遠藤忍が、自らの「とっちらかった思考を整理してもらいたい」と知人に呼びかけたことに端を発する企画『インタビューしていただく』の一環で書かれたものです。

著者紹介

安立 沙耶佳(Angela)
新卒で大手人材系企業に入社し、セールス、新規事業の渉外・企画担当に従事。2016年より福岡市に本社を置く株式会社ヌーラボの人事に転身。採用や採用広報、制度設計担当を経て、2022年10月よりPR担当に着任。社内外両面に向けた広報活動に従事。
認定ワークショップデザイナー / PRSJ認定PRプランナー

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