機能的リーダーシップと情緒的リーダーシップ (シークレット・ライター#04 – 作品34)

体育館の入り口のところには、長らく使われた形跡のない並行棒が壁沿いに置いてあった。片付けの途中、そこに少しもたれかかり、ふと通りかかった音楽教師に声をかけた。音楽教師は、学年教員団の一人であり、また自分が部長を務めていた吹奏楽部の顧問でもあった。

「どうだったでしょうか」「僕はよかったと思っている」

実際に交わされたセリフに、確からしい記憶は一つもない。ただ覚えているのは、その瞬間に糸が切れるように涙と嗚咽が溢れてしまった、ということだった。クラス全員が集まるなかで担任が言葉をかけた時、周りが悔しさに涙を滲ませていた時には、涙すら出なかったのに。中学3年生の11月、文化祭の終わりのことだ。

中学校時代、文化祭の合唱コンクールでは、3年連続して最優秀指揮者賞を受賞した。もとより、学年あたり3クラスしかない小さめの学校である。そもそもの競争相手が少ないという話はあるが、それでも吹奏楽部にいたことや指揮の振り真似みたいなことをしょっちゅうやってしまう人間だったからか、いわゆる本物っぽい「振り」ができたのだ。

しかしそれは、奇異な目で見られてもおかしくはない。事実、中学校1年生の時は、どこか空回りをする感じがあったというか、「おかしいやつ」という目で見られるような感覚があった。実際はどうだったかはわからない。しかし、体育祭に比べても「やる気のない男子」の比率が高まる合唱コンクールにおいて、自分のガチ度と周りの温度感とのズレは、確かにあった。結果的には、学年の最優秀賞を取れた中1のとき。しかし、むず痒さがあった。

中2になり、担任が変わった。クラスづくりにおいて実力のある教員だった。彼女の不断のクラスづくりの仕掛けと、「間違いなく賞が取れる」という選曲の提案のおかげで、課題曲「Let’s search for tomorrow」と、自由曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は、長らくたった今でも、振っていて楽しさを覚えていたことを思い出す。中1の時とは明らかに違って、指揮そのものも、合唱指導も、居心地良くできていたのだと思う。再び学年の最優秀賞をクラスで受賞した。しかし一方で、その練習の過程で、ピアノ伴奏の一人が、プレッシャーからパニックを起こしてしまう、という出来事も起きていた。

同じクラスメイトの構成のまま3年生を迎えた。9月の体育祭で、メインとなる4人5脚と総合得点との両方で勝利したクラスは、その勢いのまま文化祭期間に突入した。当然また、指揮者を務めた自分は、クラスを最優秀賞に導かんと息巻いていた。と、同時に、クラスはある決断をした。担任は、過去の他校での指導経験上、自由曲に「親知らず子知らず」という、歌詞は暗いが完成度を高めるとダイナミックに聞こえる曲を提案した。しかし、クラスの意思決定は、「『翼をください』を、アカペラで」というものだった。伴奏のプレッシャーをなくして、みんなで歌声を合わせたい、という意思決定。

楽譜は、インターネットで見つけてきた。アカペラだから、伴奏がない。その無伴奏を補う必要のあるアレンジを探してくるのは、少し難しかったことを覚えている。これなら大丈夫だろうとチョイスした楽譜は、しかしながら、間奏部分のハーモニーや、男性パートのハモりの音とりが、なかなか難しいものだった。伴奏がない分、音のズレが発生すると、顕著にそれが分かってしまう。かたや別のクラスは、昨年度の優勝クラスが歌った「青葉の歌」をチョイスした。個人的にも好きな歌だっただけに「あぁ、あっちの曲はいいな」と練習中に口から出してしまったことがあった。指揮者の発言として、士気を下げることにつながってしまい、ひんしゅくを買ったことも記憶している。

「緊張して険しい顔になっていると、こちらも緊張する。だから、指揮台に立ったら笑顔を見せてね」

こんな声を本番前にもらった記憶がある。自然と自分は、責任と、プレッシャーと、緊張と、その全てを抱え込んでいたのかもしれない。選曲と、楽譜選びと、そして曲作りと。敗因は、その全てに、自分があったと、今でも思っている。


小学生の頃から、学級委員的な立ち回りに好んで手を挙げていた。だがそうした役回り=「機能」が、必ずしも集団の中心的存在にならないことを、自分は体感してきた。高校生の時は、役割としての学級代表として行事の際の実務的な取り回しは行えども、体育祭や文化祭の際にクラスの精神的支柱となる「団長」ポジションになれることはなかった。何より決定的だったのは、中学時代、生徒会長選挙に落ちたことだった。選挙から1年後、卒業式で、想いを叫ぶ答辞を放った、私を下した相手の姿を目の当たりにした時、自らの「精神的支柱になれる」器の小ささを知った。彼はサッカー部部長だった。

このコンプレックスは、いまだに自分を苛んでいる。あのころよりも溶きほぐしはできてきているが、解脱はしきれていない。常に付きまとう「隣の芝生は青い」と「何者かになりたい」という欲に対して実態が伴わないような感覚が自分の中に蔓延っている。ここでの暮らしもそうだ。自分で自分を、中心に置いておけないように感じとらせてしまっている。そんな状態のまま、シェアハウスでの2回目の文化祭を迎えた。

ただ実のところ、機能を果たすことが自分の持ち味だということを、分かっていて立ち回っているのは自分でも分かっている。住人たちそれぞれの「好き」や「したい」が、誰にも後ろ指を刺されることなく解放されていくことを、自分の持ち味で作り出せたらいい、と、そう思えている自分がいる。それは今年、この物件に身を置きながら、徐々に自分の、癖の強い「好き」や「したい」が、実は受け止めてもらえるんだということに気づいていくことができた、その恩返しみたいなものでもあるのだ。

どうせなんとかなるし、なんとかする。枠組みさえあれば「精神的な中心」がなくとも、個は活きる。

なぁ思春期の自分よ。お前が「情緒的リーダーシップ」を発揮できなくても、「機能」を押さえられているなら、みんなの想いが集まって、物事は進んでいくから。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

母を、思い出せない。 (シークレット・ライター#04 – 作品30)

1991年10月4日。母が亡くなった。

この記憶が、私にはまるでない。もっといえば、母の記憶が、私にはまるでない。

私が生まれたとき、母は里帰り出産をしたようだった。生まれ落ちたのは、東京都立豊島病院。豊島といっているくせに板橋区にある。当然私が生まれた時の建物は古いものだったが、2000年ごろに建て替えられてから、ドラマ「ナースのお仕事3」のロケ地にもなったところだ。ドラマのクレジットを見て、少し心が躍ったことを思い出す。

私が生まれた病院は、母の実家にもほど近いところだった。東武東上線の中板橋という駅を降り、閑静な住宅街を歩くこと10分ほどのところにある弥生町という土地が、母の地元である。母の家から歩けるほどのところに、「ハッピーロード大山」という、都内でも有数のアーケード商店街がある。これを書く上で久々に調べてみて判明したが、なんと再開発のために取り壊しをしているらしい。

母の実家は、どうやら住宅建設業を営んでいたようだ。その詳細はよくわからないまま今に至るが、母の亡き後に母方の祖父母を訪ねていた時の記憶をたどると、建設用重機が駐車場に停められていた記憶がある。母は、3人兄弟の真ん中のようで、結局その家業は母の弟さんに引き継がれたようだった。母の姉は、奈良の方に嫁いだらしく、母方の祖父母とともに奈良を訪れた記憶が微かに残っている。ちょうど、300系新幹線・のぞみが、世に出始めたころだった。

聞くところによると、母の出身高校は豊島岡女子だったそうだ。池袋にある女子校で、近年では東大進学率も高く、医学部進学も多い、女子高としてかなり高い学力を誇る私立だったらしい。なぜかどの大学に進学したのかという情報はわからないのだが、大学生の頃の塾のアルバイトで豊島岡の高い学力レベルを知った際、それが母の出身校だと知ってかなり驚いたことを覚えている。

どうやら母は、茶道と華道の先生をしていたらしい。このことについてはこれ以上の情報がなく、30歳までカメラマンになる夢を追い続けて行方不明になっていた父とお見合い結婚をしたらしいのだが、いったい何が起きたらそんな結ばれ方になったのかについては全くもって謎のままである。あきらかに洗練された都会暮らしをしていたうるわしい女性が、池袋から1.5時間程度の距離とはいえ、北関東の田舎で工場を営む、夢破れた男のもとに嫁いだのだ、いったい何事か、というのが息子としての本音だ。

断片的に聞いた事実を紡ぎ合わせて「こんな人だった」ということを想像できても、私に記憶がない。

なんとなくおぼろげにある映像は、豊島病院の古い建物のガラス張りの入り口から、サーモンピンクのジャージを着た女性がこちらに手を振る姿を、タクシーから見ていたというビジュアルだけだ。悲しいかな、そのおぼろげな映像の中には、触れた温もりも、優しい声も、その顔つきさえも残っていない。

私を産み落としてすぐ、母はほぼ一つ返事で、お茶の水女子大学の児童発達の研究室の調査協力を承諾していたらしい。地元から東北線に乗り、当時1時間に1本だけ走っていた池袋行きを終点まで乗り通し、丸の内線の古い車両に乗り換えて、茗荷谷に至る。少し歩いて煉瓦造りのお茶女のキャンパスに至るというルートを定期的にしていたらしく、それが私の鉄道好きのきっかけだと、私は認識している。

いつだったか、母が私にしたためた手紙のようなものを見た記憶がある。そこには、丸の内線の車両が丁寧に描かれ、やさしさのある言葉が書き連ねられていた。私の好きなもので彩られた手紙は、その下地の色が水色だったような記憶がある。しかし、残念ながらその内容がまったく記憶になく、さらにいえば、その手紙がどこに行ったかまったくわからない。自分の薄情さが、悔しい。

母の死因は、大腸がんだと聞いている。まだ当時、「がん」という病気は、恐ろしいものとして捉えられていた時代だったはずだ。若くして、自らの細胞によって、自らの体が蝕まれていく状況。抗がん剤治療をしたのか、手術をしたのか、まったく聞かされないまま、ただその死因の情報だけが私の記憶に刻まれている。そのせいだろうか、健康には気をつけないと、くらいには思っているものの、それ以上に母について問いを立てることは、私の身には起きていない。自分の薄情さは、もはやなんなんだ。

母の亡き後、茗荷谷のお茶の水女子大学に定期的に出向く日々は6歳まで続いた。母方の祖父母はずっと気にかけてくれ、板橋の実家を訪れるべく東京に向かう日々は、盆と正月の恒例行事となった。池袋の東武デパートで買ってくれた、船橋屋のくず餅とまい泉のカツサンドは、東京でこそ手に入れられる贅沢な味として記憶されている。東京に住まう今でも、その味と光景は、特別なままだ。

そうした思い出や記憶は、母につながるものではあったとしても、母そのものの記憶がそもそもない。だから、思い出しようにも思い出せない。なぜかは知らないが、母が私を抱くような写真に遭遇したことがない。そのためか、母の面影を知る唯一のすべは、遺影に限られている。その遺影でさえ、自宅の仏壇に飾られることは久しく、それもあってか、母の存在を求めて寂しくなる、ということすら、自分の身に起きたことがなかったのだった。

母方の祖父母はすでに十数年前に他界し、そして私の父も8年前に亡くなった。いよいよもって、亡き母のことを直接聞ける人はいなくなった。ただ、私という存在が、亡き母の遺伝子を受け継いでいるのみになっている。生きていれば母は、私を小学校から私立に入れたかったそうだが、結果そうならずとも、納得感のある人生を歩めていることだけはせめて、亡き母に誇れるようでありたいと思う。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。 (シークレット・ライター#04 – 作品12)

気がつくと、東京方面の京浜東北線に足を踏み入れていた。上野駅で降りて銀座線に乗り換えるには、先頭車両はとても都合がいい。森山直太朗の「さくら」が流れる、天井の低いホームで電車を待っていると、レトロ感のある黄色い車両が流れ込んでくる。ちなみに私は高校生の頃、森山直太朗の曲を弾き語りしていたことがあった。「太陽」と「今が人生」が好きだ。

浅草に行ったところでさしたる用事はない。浅草寺をお参りするでもなく、仲見世を楽しむでもなく。というか浅草寺も仲見世も、昼間に行きようもんなら身動きが取れないほど人の波に苛まれてしまう。そういえば大学生のころ、連携協定を結んでいたドイツの大学から短期フィールドワークに来ていた学生のアテンドで浅草寺にいったとき、寺の敷地の中にある神社(そもそも神仏習合ってすごいよな)のしめ縄を指さされて「あの白いギザギザした紙の形の意味はなんだ」と聞かれて、「知らん」と答えたことを急に思い出してしまった。

用事がないのに浅草に出向いているのは、ただただ、大黒家の天丼を食べに行くためだ。

大黒家は、伝法院通り沿いにある。仲見世を、雷門方面から進んでいくと、両サイドにあったはずの店が、ある交差点を境に右側にしかなくなる。その交差点で、仲見世通りとクロスしているのが、伝法院通りだ。浅草寺方面に向かっていくとき、その交差点を左に見ると、頭上にでかでかと「伝法院通り」と書いてあるのでわかるはずだ。仲見世を左に曲がり、スカイツリーを背にしながら、浅草ROXが見える方に伝法院通りを進んでいく。そうすると、コロッケを買ってその場で食べる人だかりに遭遇するはずだ。昼間は歩行者天国になっているから、ここが道だということを忘れるほど、人が溢れる。

そんな伝法院通りを進むと、左手に「大黒家」の看板と、二階建ての古い家屋が目に入ってくる。ちょうど丁字路の角にあるその店の向かいには、デフォルメ似顔絵の「カリカチュア・ジャパン」がある。正直にいえば、あそこでデフォルメ似顔絵を嬉々として描いてもらっているカップルの気がしれない。そんな似顔絵屋を横目に、決して大きくもない引き戸を開けて店に入ると、決して大きくもないテーブルと椅子が所狭しと並んだ、昔ながらの風情の空間に案内される。

ちなみに、私は大黒家に、ランチタイムを狙っていくことは、まずない。並ぶ。観光客で並ぶ。インバウンド観光客も多い。旅行雑誌やネットメディアで紹介されているんだろう、つまり、そういう店だ。そもそも昼に行きようもんなら、仲見世の混雑に巻き込まれる。そもそも私は仲見世を通らずに至る。

ただただ、あの、真っ黒い天丼を食べるためだけに、ここに来る。安くはない、海老天2本と、小エビと貝柱のかき揚げ、という構成の天丼で、2,200円する。そのくせ天丼なんて昔のファストフードみたいなもんだから、長居もできたもんじゃない。それでも、あの天丼を「むしゃくしゃ」したいのだ。

あの天丼を表すオノマトペは、やっぱり「むしゃくしゃ」だと思う。天ぷらのくせに、サクサクしていない。あれはむしろフリッターというべきだろう、衣がしっとりとしている。そして何より驚くのは、真っ黒い、ということだ。天ぷらといえば、黄金色の衣に、タレが線状にかかっているビジュアルを思い浮かべるだろう。しかし、大黒家のそれは、おそらくだがタレにどっぷり浸かっている。そしてそれ以前に、ごま油でしっかり揚げられていることもあって、だから色が濃い。だが、もっと驚くべきは、味がいうほど濃くない、ということだ。

「大黒家」とネットで調べると、変換を間違えて質屋が出てきてしまう。「浅草」とキーワードを追加してまた調べると、食べログのページが出てくるが、口コミで絶賛されているわけでもない。なのに、ここに足繁く通ってしまうのは、ここがどこか、自分にとって「東京」を感じられるからなのだろう。

私はある時代に3年間、東京ではない土地で暮らしたことがある。関東に帰省する際に東京を通ると、必ず大黒家で「むしゃくしゃしてやった」。自分の心の置き所は、実は東京にあるのかもしれない、と異なる土地に居ながらも感じていたのだろう。怒りに任せるような聞こえのする「むしゃくしゃ」を鳴らしつつも、どこか安心感を覚えていたのかもしれない。

食べるたびに毎回、インスタに写真をアップする。その度に「むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。」とキャプションをつける。しかし、2021年11月29日は、少しその様子が違った。

「むしゃくしゃしてやった。ほんとうに、むしゃくしゃしている。」

 

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福岡に身を置いていたその当時、キャリアチェンジを図ろうと、2度目の国家公務員の中途採用試験を受けていた時期。人事院が実施した試験を突破し、各省庁の「官庁訪問」を受けていた。2020年は文部科学省一本勝負をして念願が叶わず、そして2021年には文科省と経済産業省、そしてデジタル庁の門を叩いた。文科省と経産省はオンライン面接だったが、デジタル庁がまさかの対面の面接。「デジタル」とはいかに。それで面接を受けたあと、経産省からもデジ庁からもお祈りの電話を受けたあと、自然と足は大黒家に向かっていた。なお文科省からはすでにお祈りされていた。「今年も、だめだった。」

罪悪感のある、真っ黒い天丼。海老好きの私にとっては贅沢の極みとも言える2本の海老天と小エビと貝柱のかき揚げをたらふく食べても、「反省はしていない」と言い切ってしまう。ここで、好きなものを食べることくらい、日ごろの「むしゃくしゃ」を思えば、許されたっていいはずだろう?

いつか、「むしゃくしゃ」したからではなく、純粋に自分の願いが叶ったことへのご褒美として、天丼を食べたいものだ。とてもどうでもいいが、大黒家の娘さんは夢を叶えて声優をしているらしく、このことをコミケに出展した日の帰りに大黒家に立ち寄ったときに知った。年末に大黒家で「大黒家」を調べていたら、店主の娘がコスプレで有明にいたらしい、という衝撃。好きな天丼を出す店の関係者が夢を叶えているのだとすれば、そのうち私だって、報われる日々がやってくると信じたいものだ。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

箱根山学校、最後のジャーナリング

2024年 9月 20日(金)から「箱根山学校」というワークショップに参加した。

過去、3回参加したことがあるこのワークショップは、岩手県・陸前高田市にある箱根山という山の中腹にたたずむ箱根山テラスという宿泊施設で行われる。箱根山テラスは、海から吹く・山から吹く、そんな風の行き来を感じられる場所で、自分にとっても「定点観測」をするのにぴったりな場所だ。

そもそも「ワークショップ」と呼んでいるのも、周囲へのわかりやすさのためであり、上のリンクから読めるnoteにもこんなことが書いてある。

この学校は、なにが学べるのかよくわからないまま10年目をむかえようとしています(正確にはコロナを挟んで11年目)。わかるとか、成長するとか、出来るようになるといった即物的な効果・成果を求められがちな時代に、なにやってるんでしょう。でもそういうのはもう十分じゃないですか。人のことを「変えよう」とする本やイベントや情報が多すぎる気がします。ほっといてくれ!

中心メンバーである、友廣裕一さん、長谷川浩己さん、三原寛子さん、長谷川順一さん、そして西村佳哲さんがつくる(いや、つくってすらいない?)場において、集まった人たちがめいめいに語っていくことから、集まった人たちがめいめいに何かを学んだり学ばなかったりしていく時間。

そこでは私はいつも、自分自身を見つめてきた。

絵を描くわけでもないのに、スケッチブックを持ち込んで、それで話をひたすらペンでメモしていく。読み返すわけでもないが、書き込むことで話が入ってくる感覚。そうしてひとしきり人の話をメモした後、それを読み返しながら、自分の内省に手の動きを任せてペンを走らせる。そうしてジャーナリングをする。

書いたジャーナリングは、過去のものはこのシリーズにまとめている。

箱根山学校の、自分の記録

10回という区切りを設けて行われてきた箱根山学校。いよいよ、そこでのジャーナリングができるのも最後。山を降りてから1週間経ち、スケッチブックにびっしりと書き出した文字たちを、あらためてなぞるように、テキストに落とし込んでみた。

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2022年・箱根山学校でのジャーナリング

明日から東北・三陸沿岸に前入りして、2024年 9月 20日(金)から「箱根山学校」というワークショップに参加する。

過去、3回参加したことがあるこのワークショップは、岩手県・陸前高田市にある箱根山という山の中腹にたたずむ箱根山テラスという宿泊施設で行われる。箱根山テラスは、海から吹く・山から吹く、そんな風の行き来を感じられる場所で、自分にとっても「定点観測」をするのにぴったりな場所だ。

そもそも「ワークショップ」と呼んでいるのも、周囲へのわかりやすさのためであり、上のリンクから読めるnoteにもこんなことが書いてある。

この学校は、なにが学べるのかよくわからないまま10年目をむかえようとしています(正確にはコロナを挟んで11年目)。わかるとか、成長するとか、出来るようになるといった即物的な効果・成果を求められがちな時代に、なにやってるんでしょう。でもそういうのはもう十分じゃないですか。人のことを「変えよう」とする本やイベントや情報が多すぎる気がします。ほっといてくれ!

中心メンバーである、友廣裕一さん、長谷川浩己さん、三原寛子さん、長谷川順一さん、そして西村佳哲さんがつくる(いや、つくってすらいない?)場において、集まった人たちがめいめいに語っていくことから、集まった人たちがめいめいに何かを学んだり学ばなかったりしていく時間。

そこでは私はいつも、自分自身を見つめる。

絵を描くわけでもないのに、スケッチブックを持ち込んで、それで話をひたすらペンでメモしていく。読み返すわけでもないが、書き込むことで話が入ってくる感覚。そうしてひとしきり人の話をメモした後、それを読み返しながら、自分の内省に手の動きを任せてペンを走らせる。そうしてジャーナリングをする。

書いたジャーナリングは、過去のものはこのシリーズにまとめている。

箱根山学校の、自分の記録

だが、2022年に参加した回のジャーナリングをブログに書き起こすのが、2年経ってからの旅の前日になってしまった。奇しくも「箱根山学校」は、2024年を最後に区切りがつく。

ちょうどいい。ちょっと思い返すとしようか。

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道に迷う不安、「いつもの」を選ぶ安堵

よく、道を聞かれる。

7月に宮崎を訪れたとき、夜の宮崎駅前で「橘通はどういったらいいですか?」と出張者に聞かれた。「地元の人間じゃないんですけど、橘通はここをまっすぐ行ったら着きます」と案内した。自分でも思う、なんで案内できるんだよ。

2ヶ月前にインスタで紹介した、高校以来の友人である上田さんのところで髪を切ったあとのこと。彼女の店舗は新宿西口を大久保方面に歩いた、一蘭の建物にある。軽い小雨が降る中だったから、大江戸線のD5口から地下を通ってJRの駅に出ようと歩いていた。アップダウンはあるが、それは仕方ない。そうして小田急HALC手前のエスカレーターを登ろうとする少し前、「すみません」と妙齢の女性から声をかけられた。

「伊勢丹はどこですか?」、その質問に咄嗟に「こっちじゃないです」と答えた。私がJR側に向かおうとする一方、対面して歩いてきたその方。その方向はあきらかに伊勢丹から遠ざかっている。小田急百貨店すら背にしている。「あら、分かんなくなっちゃって」とおっしゃるその方に、「途中までいくのでご案内します」と声をかけていた。

事実、わかりやすいところまでは一緒だった。大江戸線の新宿西口駅のエスカレーターを登って、丸の内線の改札が見えたら、そこから東に続く東西地下通路をひたすらまっすぐ行けば、いつの間にか新宿三丁目の駅にまで到達し、左手に伊勢丹の入り口が見える。それが分かっていただけでなく、家に帰る気でいたので、西口からJRに入らずに、地下通路から東口に至ったとしても、埼京線のホームまでの歩行距離はさして変わらない。瞬時にそう判断して、私が別れるところで「あとはここをずっとまっすぐです」と言おうと思っていた。

結局、その女性は丸の内線の改札まで来たところで「あ、あとは分かります」と言っていた。その時点で西口方面に分かれていけたはずなのに、結局自分は東西地下通路を東口に向けて歩いていた。女性の少し前を歩いているつもりだったがいつの間にか距離が離れてしまい、振り返って会釈をして自分の歩行ペースを取り戻したとき、すでに地下通路は半分より東寄りまで至っていた。

家に帰ってから昼食を、と考えていたが、新宿に出てきたことをもったいなくも感じていた。合理的に最短距離を取るなら東口に来る必要性はない。しかし、「案内せねば」というおせっかいから無駄に東口に来てしまった。たいして強い欲求などないのに、ロールキャベツシチューのアカシアに足を向けていた。正直、惰性である。

外食をするとき、私は、あらたな店の開拓より、見知った店のリピートを好んでしまう。日々の食事であっても、同じものを食べても飽きない人間だ。だから、新宿ほど大きな街のなかにあって、「ここにいくか」と思い立つ店は限られる。どこに何があって、今いるところからどういけばそこに辿り着けるかの見通しをつけるのが得意なほどには新宿の街を知っていても、安心できる「いつもの」の数は、少ない。

例の女性も、「新宿といえば伊勢丹」というほどに「いつもの」を感じる場所だったはずだ。だけど「新しくなって、ダメね」というぼやきが、その道中を迷路に変えてしまったことを感じさせた。「昔は、小田急を出てまっすぐ行けば着いたのに」、分かっているはずの街で感じる不安に、図らずも約2年半前、ソーシャルアパートメントに引っ越してすぐ、上田さんのもとで髪を切った後に新宿の雑踏で感じた不安を思い出した。

ソーシャルアパートメントに暮らしています。2(ネイバーズ東十条の暮らし)

よく道を聞かれる。おそらくだが、顔つきが安心感を与えるのだろうか。声をかけても怪訝な顔をされないと思われているんだろうし、事実、聞かれた場所への行き方はだいたい指南できている。迷う人の、その迷いを晴らしたい、という願いみたいなもんは、そうそう自分からは剥がれないようだ。だからこそだろうか、食べるものでさえ、未知の店に迷うくらいなら、既知の安心の店をたよりたくなる。

そういって、アカシアにつき、ちょっと並んでから一人席に着いて困った。ロールキャベツシチューは食べるとして、メインを何にするか全く考えていなかった、というか、別にどれでも良かったのでかえって迷った。そんな折、今日のおすすめが「豚ハンバーグステーキとロールキャベツシチュー、ごはん付」だった。「豚ハンバーグ」という、ちょっとした違和感の残る耳ざわりと、四角くて白くて薄いビジュアル。ちょっとした冒険が、そこにあった。むろん、頼んで食べてみたら美味しかったのは、言うまでもない。

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コミュニケーションをなんだと思っているんだ (シークレット・ライター #03 – 作品12)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。
なお、作中において槍玉に挙げられている「あいつ」は筆者・遠藤自身であり、特定の他者に向けられたものではありません。

テーブルに座ってごはんを食べているとき、ぼそっと愚痴っぽくつぶやいたら、突然スイッチを入れてきて、根掘り葉掘り聞いてきやがる。いちおう「スイッチ入っちゃっていい?」とは聞いてくるけど、でもそもそも、こんな話、みんながいるところでするものでもないだろう。

しかも、けっこう質問がするどい。というか、あんまり考えたことのないことを聞いてくる。すぐに答えられるわけないじゃないか、そんなもん。それに、誰が聞いているかもわからないところで、本音で答えられるとでも思っているんだろうか。本音なんて、なかなか出せないよ。

たしかに、悩みはあるし、そしてそれを話すこと・吐き出すことができるのは、この家に住んでいて「ありがたい」と感じる。いろんな生き方をしている人がいて、それぞれに価値観が違っていて、だからアドバイスをもらえると、考えの幅が広がる感じがする。

でもそれって、すぐにできるってもんでもないじゃん。どっかに出かけたり、飲みに行ったり、一緒にごはんつくったりして、それで少しずつ相手のことを知れるから、話したいって思えるんじゃないか。あいつ、いつもただテーブルにいるだけじゃん。みんなで飲んでても、あんまり絡んでこないし。

百歩譲って、話を聞いてもらえるのはありがたいし、考えたことがない質問をしてくれるのは、考えを整理するのに役には立っていると思う。でも、別に今そんなテンションで揺さぶられても困るし。それになんか、「スイッチが入った」状態で、なんかズケズケと入り込まれてくる感じがするんだけど。

いや、たぶん本人としては、自分のためを思って聞いてくれているんじゃないかとは思う。なんとなくそれは伝わるんだけど、それ、実際「あなたが知りたいことを聞いているだけなんじゃない?」なんて思ってしまう。いま答えていることって、自分が「ほんとうに話したいこと」なのか、自信はない。

いちおう、アドバイスを言いたそうだから、「どうしたらいいっすかね」と聞いてみると、逆に質問で返される。こっちが聞いてんだ、これ以上聞いてくんな。「思ったこと言っていい?」と聞かれたから「どうぞ」って促したら、めっちゃ長く語ってきた。長いよ、そんなに長いやつ、求めてないって。

そしたら流れで「俺の場合はさ」とか言って本人の話をし始めた。これ、こっちに対するアドバイスをしているんじゃないの? これもしかして、実のところ本人の話を聞いてほしいだけなんじゃないか?人の話を聞くふりをして、人に話を聞いてもらおうとするのは、あんまり気持ちがいいもんじゃない。

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。

そういえばこの前、ラウンジでおしゃべりしてたときも、なんかずっと同じ話題で話し続けている感じがあったな。気軽な会話でそんなにずっと同じ話題しゃべらんて。そうかと思えば、全然会話にも入ってこれない時もあるし。なんだろ、無理して話題についてこようとしてるというか。

あと別の時も、なんかしゃべってて、ずっとなんか頑張って質問されている感じがした時があったな。気を遣われているっていうか、なんとかして会話続けようとしているっていうか。そんな頑張らんでもいいのに。空気読もうとしてるけど、空気読めてないっていうか。バランス悪いんか。

もっと自然に振る舞えばいいのに。無理して話そうとしなくたって、別にこっちがそのモードだったらこっちから話するし、そのモードじゃなかったら静かにしているのを大事にしてほしいし。それにさ、聞いてほしいんだったら、素直にそう言えばいいじゃん、こっちに問いかけてその状況にしなくても。

ここにいると、みんなやさしくてあったかくて、だから寂しく感じなくて済んでるんだけど、だからといって、みんなと仲良くできるわけじゃない。合う人もいれば合わない人もいて、だからコミュニケーションの濃さも、グラデーションになるはずでしょ。別にそれでいいじゃん。

なんかあいつは、よく言えば、みんなとフラットに接しようとしているんだけど、裏を返せば、みんなと仲良くなろうとしていて、みんなから好かれようとしていて。でも、それ無理じゃん、って。平等に均一に、同じ濃さで関わるって、そりゃ無理だよ。コミュニケーションをなんだと思ってるんだ。

別に、みんなで盛り上がらなきゃいけないわけじゃない。別に、みんなと仲良くしなきゃいけないわけじゃない。無理してそんなことして疲れるくらいなら、やらなきゃいい。好きなように居ればいいだけのことなのに、それをこじらせて「うまく溶け込めてない」なんて思われても、知ったこっちゃない。

そういえば、あれだ、「みんしる*」だってそうだ。たぶん本人は、自分のことを聞いてもらうのが好きだから、人を選ばずに語るってのは得意なんだと思う。でも、みんなそれが得意じゃないし、みんなが自己開示をぽんぽんできると思ったら大間違いだ。自己開示は、人と場所を選ぶもんだろ。
*みんしる=物件内で行われるトークイベント、住人が自分自身のことを形式フリーで語ることができるイベントを月イチで開催している。

無理やり引き出されることをしなくたって、自分なりのやり方で、自分なりの心地よさで、この場所に溶け込んでいけるんだ。あいつだって、そうすればいいだけなんだけど、でもこっちの心地よさも尊重してほしい。ペースに合わせる、までしなくても、合わせようと様子を見てくれればそれでいい。

自分のことを基点にするのがコミュニケーションなのか? 相手ありきなんじゃないのか?

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。


「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

Beyond language (シークレット・ライター #03 – 作品27)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。

Over twenty-five articles from sixteen writers living in this social apartment reflect how diverse our share mates see their lives and communication here.  However, the language itself is still homogeneous, Japanese.

Japanese, which is one of the most difficult languages to acquire, is very beautiful to express the writers’ inner feelings and thoughts because of its diversity of vocabulary, ambiguity by absence of the subject, and variability of sentence structure.  And because of these, the articles under this exhibition called “Secret Writer” are striking readers’ hearts.  But, the experience of being moved by each article is limited only for fluent Japanese readers.

Here, I feel unconscious-exclusiveness.  Yes, even I, both the writer of this article and the organizer of the exhibition, excluded other languages users unconsciously.


There are several reasons why I organize the exhibition.  One is that there are many residents here who like to write essays or even work as professional writers, and I wanted to read their essays which reflect their feelings and thoughts through the social apartment lives.  Each writer has to hide their name from each article under the regulation of the exhibition, and this makes readers think who to write, and therefore communication among the residents occurs.

On the other, and moreover, I wanted to express myself through essays, not by verbal communication.  This is because I, who some residents recognize as talkative, feel lonely or being a minority in the community here, and this kind of my negative perspective for being a part of this community wouldn’t be appeared through the daily communication even I don’t hesitate hiding.  Because I can hide the name as a writer, I can express what I want to express more freely.

Surprisingly to me, not only me but also other writers put their inner feelings into the essays with their own way of the expressions.  Readers, and they are our residents in other words, encountered different aspects of writers which couldn’t be appeared in the daily conversation on the 2nd floor.  This is what both writers and readers enjoyed the exhibition the most.  But, we cannot share this delighted “re-discovery” of the residents here with non-native readers of Japanese.


I was so lucky that myself in childhood was both talkative and interested in acquiring English, now I can enjoy talking with residents from other countries even they cannot speak Japanese fluently.  One thing to add here, residents from other countries put so much hard work into learning Japanese and their fluency get tremendously better day by day.  I even appreciate, as one person fostered in Japan, their relentless effort for acquiring Japanese language and basic interests for the culture and habit in Japan.

Because of that, I feel a disappointment to myself that I couldn’t put the consideration for non Japanese users even though I hope to create a world where all people share the ideas of inclusion.  I always state that knowing and giving respect to each other are the basic keys to create a better future of inclusion beyond each difference.  The life in this social apartment is the right place for the actual practice, I suppose.


I cannot truly understand, and should not predict what the non Japanese users here feel or think.  But I imagine that living in a different country where one’s native language is limited to use makes one’s heart feel alone or being a minority.  But I strongly believe that we, as residents here, can melt such feelings by sharing a precious time in the same community.  Language itself is a one of the tools, but sometimes verbal communication doesn’t need the fluency of the language.  The interest and desire for knowing each other can go beyond language.  But on the other hand, we need to understand that languages themselves become the barrier for the desire to understand others.

The old proverb says “When in Rome, do as the Romans do”, but this couldn’t be a reason that native Japanese users here don’t put consideration to the non Japanese users here.  Or, even the distinction between Japanese users and non Japanese users is not appropriate for the mutual understanding as people under the shared community here.  I want to make the opportunity for participation into this community open for everyone.  And to enable this, I don’t want to make the opportunity closed into the Japanese language.

This is why I wrote this essay, with my regrets for less consideration for international members here.


I want to see each of you as individuals who have different interesting life-stories, many aspects of the life, and shared interests among the life in the social apartment.  We can be life-long “share mates” even though we spend a short time together.  At that time. our friendship can be beyond language, I believe.

So I promise you. I won’t make the language itself a barrier to our communication.  I won’t let you alone.



「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「言語化」を言語化する:相手の言語化を促すための 「いっしょにみとおす」問いかけ

比較的言語化が遅い人への接し方が不得意なんだけど、なんかコツを掴みたい

という悩みが、知人からもたらされた。思わず私は

出るまで待ってあげてくれ

とレスをしてしまった。

これが思いのほか自分の思考をぶん回してしまったので、他に書くべきことがある最中だが、結局記事にしてしまった。

「言語化が遅い人への接し方が不得意」には、おそらく2つの課題が含まれていて、それは

  • 相手からの言葉による返答が遅い(ので俊敏性を上げたい)
  • 返答が遅い人の対応がもどかしい(ので適切な接し方が知りたい)

ということだと思う。

で、ここでポイントだと思うのは、相手の言語化力をどう伸ばすか、ということと同時に、自分の接し方の部分をどう最適化できるか、という双方をセットで行うことの大事さだ。

当方、障害者雇用を担当している。また、教員だった経験もある。なにより、長らく続けてきたブログのおかげで、時折「言語化おばけ」と言われることもある。聞く側の私の言語化力の高さに比して、話す相手のそれとに非対称性があるようなケースも、多く経験がある。そして、私も、もどかしさを感じることがあった。

ではどうしてきたか。ここいらで少し棚卸しをしてみようと思う。

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「夢があるから、がんばれる」 – ひさびさにとある広告に出会った話

 

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千代田線、日比谷駅。小田急の車両の直通電車に乗っていた私は、扉を見て思わず、降りるつもりだった電車にまた乗った。扉に貼られた、鶴巻温泉病院の広告が、胸を打ったからだ。

この記事は、Instagramへの投稿を転載したものです。

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