ぼくたちは、世界を変えることができるか (シークレット・ライター#06 – 作品07)

「世界を変える」なんて、志を奮い立たせるような高らかな言葉に吸い寄せられて、「現場」と呼ばれる、だれかの営みがある場所に出向くと、結局はそこで自分の無力さを思い知ってしまう。

「世界を変える」なんて、自分にできるんだろうか。「世界を変える」って、なんなんだろうか。

あれはもう去年のことだったか。飄々とした様子で自分の半生を語り、そして季節が真反対になる大陸の国を訪れた経験を語った彼女は、間違いなく揺らぎの中にあった。それまでは想像の範疇だった「現場」を目の当たりにし、そこにある人々の営みのあたたかさに触れながらも、「現場」のようすは間違いなく衝撃だったはずで、そして「現場」をともにした仲間にも揺さぶられ。それまで自分がこうだろうと思っていた道筋すらも音を立てて崩れ、今を・これからを、どうしていこうかを迷っていた。
それでも彼女は、その揺らぎを、揺さぶりを、飄々と、そして前向きに語っていた。

「持続可能な小さな幸せ」という言葉が、映像の中に残っている。その「持続可能」こそ難しく、人々の今の営みにある心の豊かさと、開発がもたらす豊かさと、そこに葛藤をみていたような気もしたが、けれど「そこにある小さな幸せ」を大事にしたいという思い、その根底に流れる「ワクワクする方へ」という発想の灯は、確かに熱を帯びていた。結局、そのエネルギーで彼女は、初めての訪問から半年くらいしてまた彼の地を踏んだし、その後には会社を飛び出すことにもした。とんでもない決断だ。

私は、真面目に、でも本気で、世の中に役立つことを、世界がより良い方向に変わることを、したいと思ってきた。でもそれはなかなか周囲には受け入れられにくくて、「わかってもらえない」と思い込んでいた。自分の周りに広がる世界は、「私をわかってくれない」世界で、そこに線を引いていた。

だから私は彼女に聞いた。「真面目に生きてきたことと、周囲と、どう折り合いをつけたのか」と。

彼女の答えは、自分の捉え方を変える、ということだった。「世界の見方を変える」をしていた。

我が家の中でもハツラツと周りと関わり、酒を飲めばテンションをあげ、真面目に語れば真剣に聞き、常に明るい笑顔で彼女は過ごしていた。きっとあっただろうが、しかしそこに憂いは見えなかった。さながら秋に田んぼで輝く稲穂のような輝く黄色が似合うようだった。少なからず私たちはこの家で、彼女の姿を「かっこいい」と思い、彼女の姿に刺激を受けたに違いない。

約束された地位と安定を手放し、国境を越えて挑戦をする姿は、正直眩しい。でもきっと彼女にしてみれば、「挑戦」なんて大それたものではなく、ただ「ワクワクする方へ」と生きる世界を変えていくだけのことなのだろう。どうかこれからも、そうして「変わった世界の見方」を、教えて欲しい。

「世界を変える」なんて大それたことを言わなくても、自分が世界をどう見るかは変えられるんだな。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第6回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

ともに、旅に出る (シークレット・ライター#05 – 作品17)

旅と旅行。どっちも同じ漢字を含んでいるのに、なにかイメージが違っているのはなぜだろう。英語に置き換えると、journeyとtripの違いといったところだろうか。調べてみれば、journeyは旅の 「過程」 に着目しているが、tripは 「目的」 に着目しているらしい。ふと、journeyがjournalという単語と同じ語源なのではと思って生成AIに聞いてみると、フランス語のjournée、つまり 「日々」 からきているらしい。

ソーシャルアパートメントでは、日々の暮らしを共にしているにもかかわらず、同居人たちと旅行に出かける人が多い。先日も車でキャンプフェスに出かけた一団を見たかと思えば、やれ万博だ、やれ韓国だ、宿泊を伴った遠出の話は枚挙にいとまがない。シンガポールに以前の同居人を訪ねた猛者もいる。そもそも同じ屋根の下に住んでいるので、毎日が宿泊みたいなもんだ。しかし、同居人どうしで旅行をするのは、非日常の目的を持って、その目的地での時間を楽しみたいからなのだろう。だけど実際は、旅行の目的よりも、道中で起きる些細な出来事や、一緒に時間を共にした仲間との会話の方が、印象に残っているということの方が多い。同じ日々を過ごしているどうしなのに、道中の方が、絆が深まる。

「しずかなワーケーション」というシリーズをやったことがある。ワイワイとした雰囲気のまま、テンション高く旅行をする楽しさもわかるが、独りでいる寂しさを噛み締めることも含めて一人旅を嗜む私としては、心地よい空気と澄んだ静寂が流れるなかで、しずかに時を過ごすような旅を、同居人とやってみたかった。そうして最初に選んだ高尾山の麓の宿泊施設では、夜に焚き火を囲んで語らいをした。2回目の千葉では古民家でめいめいに仕事をした。3回目の熱海では海を見下ろしてサウナに入った。4回目の鎌倉は早朝に叩き起こされて禅寺で坐禅を組んだ。日々と違う場所で過ごすということ以外、寝て起きて食べて働いて、というのは変わらないはずなのに、交わした会話が紡いだ関係性は、今までとは違う見方を伴って、参加者どうしに横たわった。新発見と再発見に出会う、さながら 「旅」 だった。

彼を初回に誘ったのは、ワーキングラウンジに常にいすくまっていた 「連続起業家」 のことが気になっていたからだ。いや、欠員が出たから、という理由もあったが、交わるにも交わりきれないように見えた彼を、もう少し知ってみたかったからだ。高尾山温泉に浸かりながら仕事の話を聞こうとすると、「語るには5時間かかる」と言われたが、いっそ語らせてみればよかったとすら思う。2回目のこと、あまりにも空腹だったのに調味料を買い忘れていたヘマに深夜になって気づいて、致し方なくもスープの出汁をウィンナーで取るという奇行に出た彼。うっすらと風味を感じたことは忘れられない。斜面に立つ古民家ヴィラで迎えた3回目は、彼の誕生日でもあったのだが、共にした仲間とケーキでお祝いをしたら、いままで祝われたことがないといって戸惑っていた彼。その頃にはこの家に馴染んでいた彼の日々のひょうきんさからも、はたまた 「連続起業家」 というペルソナのスマートさからも、そのどちらからも想像がつかない様子は、しかし彼の生い立ちを聞けば、どこか納得のいくものだった。

誰ひとりとして、行き先で何をするかが同じではなかった「しずかなワーケーション」は、しかし時間を共にしてみると、特に彼の、この家の日々では知りえなかった様子に偶然にも出会うことができた。それが 「旅」 というものなのだと思う。だから 「旅」 という言葉は、「人生」 にも使われる。彼はこの夏、自分の人生の大きな挑戦に向け、異国に旅立つ。その挑戦を、その道程を、心から応援したいと思えるのは、「ともに、旅に出る」ということをしてみて、彼のことをより深く知れたからだ。知らんけど。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第5回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

もちつもたれつ (シークレット・ライター#05 – 作品16)

「自立とは、依存先を増やすこと」と言ったのは、東京大学の教授である熊谷晋一郎さん。よく、人は一人では生きていけないというけれど、一見すると一人で生きているように思える「自立」という言葉は、実のところ、自分一人だけで成り立っているものじゃないらしい。

大学時代に「学び」について学んでいたころ、「自律学習」という専門用語が「自立」じゃないことが気になって、とあるゲストスピーカーに「なぜだ」と聞いてみたことがある。その回答が明確だった。「Self controlできなければ、Self standingできないでしょ」と聞いて、そうか、依りかかりながら少しずつ立てるようになっていくんだ、ということに気づくことができた。自律には、助けが要る。

ソーシャルアパートメントで暮らすと、様々な住人のいろいろな面を見聞きする。交わしたり交わさなかったり、関わったり関わらなかったりしながら、くう・ねる・やすらぐを、いっしょに営んでいく。楽しさを共有できるのはもちろん、相対する人を知っていくことの愉しさを得ることができる。でも、その楽しさや愉しさの深まりは、自分のことを知られる、つまり生身の本音をさらけだすことにもつながりかねない。楽しさ・愉しさと、不安・おそれと、その絶妙なバランスの中で、僕らは生きている。

ここの人たちはきっと、そんな、しなやかだけどもろい部分を、多かれ少なかれ持っている。けれど、その確証を持ちにくくて、せっかく誰かとともにいるのに、依りかかりきれないままに、淋しさと寂しさを抱いてしまうことがある。いや、誰かとともにいるからこそ、しなやかでもろいバランスを崩すまいと、自分を出すことに躊躇してしまうのかもしれない。

彼女は、しかしそこに開き直って、しなやかだけどもろい部分を出していった。いや、出さざるをえなかったのだと思う。そうしてみることで、実は自分のもろさは自分だけしか持っていないと思っていたのが、そうでもないことに気づけたらしい。それは、自分とは違う住人との交わり・関わりによって、もたらされた。しかも国籍・人種・言語・文化の隔たりが大きい方が、むしろ近しく共感されたらしい。

自分の、しなやかだけどもろい部分を出した方が、実は他の誰かの、しなやかでもろい部分と響き合って、わかりあえることにつながるのだろう。具体的に手を差し伸べられないとしても、共鳴したという感覚があるだけで、安心できることがあるはずだ。それが、楽しさと愉しさを深めていくんだろう。

誰もが、誰かの全てを受け止めきれないし、受け止められる時もあれば受け止めて欲しいこともある。せっかく多くの人と交わし・関われる空間なのだから、自分のしなやかだけどもろい部分を、少しずつ出していきながら、ある時は相手に少しもたれ、またある時は相手を少しもち、もちつもたれつで生きていくことができたらいいんだと思う。だから、助けるし、だから助けられているんだろう。

そう気づかせてくれた仲間が、自立していく。僕もその仲間と「もちつもたれつ」だったんだろうな。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第5回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「探究とキャリア」についての長い思索の旅路 – ③「キャリア」をめぐる見方・考え方 : 「よりよい在り方」につながる選択と物語

先日、とある基礎自治体の教育委員会から、Teach For Japanの7期フェローの肩書きで、キャリア教育について講演の機会をいただいた。今回機会をいただいたことで、少なくとも私は、たかだか3年間しかなかった現場経験のなかでも、好き勝手やらせてもらったさまざまな「再現不可能」ともいうべき実践たちと、その根底にある考え方を、つなげて整理できた感覚があった。とてももったいない気がするので、その時の資料をもとに、あらためて気が向くままに文字に起こしたら案の定とてつもない文字数になったので、分割しておいた。

目次


前の章では、探偵ナイトスクープの動画に端を発して、「探究」についての見方・考え方を深めた。動画からまとめた5つの要諦(好き・肯定・仮説・専門知・伴奏者:詳しくは前章を見てね)は、私のキャリアの中でも欠かせない外部活動であるNPO青春基地のフィロソフィーがあるからこそまとめられたものだし、2030年の学習指導要領改定につながる議論にも見られた。さらにはMIMIGURIの安斎さんの論考からも、そして現状の「総合学習」や「総合探究」に理念づけられている考え方からも、「問いと関心を持ち、学びを前に動かし、だれかと共に進む、そんな自分を知る営みとしての探究」ということが言えることを考えてきた。つまり探究とはキャリア。では一方で私は、「キャリア」という言葉をどう見通しているのか。それを書き出していきたいと思う。

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「探究とキャリア」についての長い思索の旅路 – ②「探究」の5つの要諦 : 対象への探究が、自分自身の探究に、つながり・広がる過程

先日、とある基礎自治体の教育委員会から、Teach For Japanの7期フェローの肩書きで、キャリア教育について講演の機会をいただいた。今回機会をいただいたことで、少なくとも私は、たかだか3年間しかなかった現場経験のなかでも、好き勝手やらせてもらったさまざまな「再現不可能」ともいうべき実践たちと、その根底にある考え方を、つなげて整理できた感覚があった。とてももったいない気がするので、その時の資料をもとに、あらためて気が向くままに文字に起こしたら案の定とてつもない文字数になったので、分割しておいた。

目次


前の章では、自分のこれまでのライフストーリーをただつらつらと書き起こした。実際の講演ではスライドでそれを見せながら示したのだが、そこでは自分がどんな人間なのかを示したかっただけでなく、それぞれの経験のなかで、自分自身が「正解なんてないような問いを探究し、それを面白がって取り組んでいたら、楽しくなっちゃった」ということ、そしてそれらの経験がまた、他の経験に結節していった、ということを示した。そのキーワードが「プロジェクトという生き方」「探究というキャリア」だった。ここを、もう少し、私発信じゃないソースから解き明かしたい。

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「探究とキャリア」についての長い思索の旅路 – ①プロジェクトという生き方、探究というキャリア : 私の「誇らしい過去」から

先日、とある基礎自治体の教育委員会から、Teach For Japanの7期フェローの肩書きで、キャリア教育について講演の機会をいただいた。たかだか3年しか、しかも担任を持たない臨時的任用講師の任に就いていただけの私が、恐れ多くもその自治体が設置する義務教育の学校、そしてその自治体に在する高校の、キャリア・進路に関係する先生たちの前で話すというのはなんとも恐縮だった。

だが、そのお誘いをしていただいた方とは10年以上にわたってのご縁があり、そして私の3年間の実践と、その発信を見守ってくれていた。だからこそ、実践とその背景にある思索をもって、私をスピーカーに推挙してくださったと思っている。迎えた当日、ギリギリまで完成をみなかったスライドとともに、90分間を爆速で話してしまったため、きっと聞いていた先生方にとっては、未消化な「?」だけが大いに残ってしまったのではないかと反省している。それでも、今回機会をいただいたことで、少なくとも私は、たかだか3年間しかなかった現場経験のなかでも、好き勝手やらせてもらったさまざまな「再現不可能」ともいうべき実践たちと、その根底にある考え方を、つなげて整理できた感覚があった。

とてももったいない気がするので、その時の資料をもとに、あらためて気が向くままに文字に起こしておきたい。と思ったら案の定とてつもない文字数になったので、分割しておいた。

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長い思索の旅路の入り口として、私のこれまでのことを語っておきたい。長い長い自己紹介だと思って読み流してもらえればいい。けれど、この思索の旅路の裏側には、これまでの私の経験が息づいている。

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初任者へおすすめの一冊2025 – 高田裕美『奇跡のフォント』

2022年の3月まで教員をしていたのだが、その当時の教え子から大学進学の吉報が届いた。それで2つのことを思い出した。自分が教員だったことと、そろそろ春が近づいている、ということだ。

2025年もまた、初任者たちが現場にやってくる。私はもうその現場を離れて久しく、年度の切り替わりという感覚は遠のいているのだが、それでも自分が、講師ではありながらも教員1年目を迎えた30歳の春の高揚感は思い出せるし、翌年以降に入ってくる新卒の初任者たちの初々しさもなんとなく覚えている。

2021年から2023年まで、私は、一般社団法人かたりすと・サイト “カタリスト for edu” の企画「初任者へおすすめの一冊」への寄稿をさせてもらっていた。2022年は1冊に絞れなかったので2冊目を自分のブログで紹介もした。

2024年は企画をお休みするとの知らせを得てもなお、勝手に執筆をした。

そして2025年。さすがに現場を離れて3年、もはや教育業界から離れてしまっている自分がなにを、と思いつつ、そういえばあと1冊あったんだ、と思い出した本があった。今回も勝手にそれを紹介したいと思う。


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機能的リーダーシップと情緒的リーダーシップ (シークレット・ライター#04 – 作品34)

体育館の入り口のところには、長らく使われた形跡のない並行棒が壁沿いに置いてあった。片付けの途中、そこに少しもたれかかり、ふと通りかかった音楽教師に声をかけた。音楽教師は、学年教員団の一人であり、また自分が部長を務めていた吹奏楽部の顧問でもあった。

「どうだったでしょうか」「僕はよかったと思っている」

実際に交わされたセリフに、確からしい記憶は一つもない。ただ覚えているのは、その瞬間に糸が切れるように涙と嗚咽が溢れてしまった、ということだった。クラス全員が集まるなかで担任が言葉をかけた時、周りが悔しさに涙を滲ませていた時には、涙すら出なかったのに。中学3年生の11月、文化祭の終わりのことだ。

中学校時代、文化祭の合唱コンクールでは、3年連続して最優秀指揮者賞を受賞した。もとより、学年あたり3クラスしかない小さめの学校である。そもそもの競争相手が少ないという話はあるが、それでも吹奏楽部にいたことや指揮の振り真似みたいなことをしょっちゅうやってしまう人間だったからか、いわゆる本物っぽい「振り」ができたのだ。

しかしそれは、奇異な目で見られてもおかしくはない。事実、中学校1年生の時は、どこか空回りをする感じがあったというか、「おかしいやつ」という目で見られるような感覚があった。実際はどうだったかはわからない。しかし、体育祭に比べても「やる気のない男子」の比率が高まる合唱コンクールにおいて、自分のガチ度と周りの温度感とのズレは、確かにあった。結果的には、学年の最優秀賞を取れた中1のとき。しかし、むず痒さがあった。

中2になり、担任が変わった。クラスづくりにおいて実力のある教員だった。彼女の不断のクラスづくりの仕掛けと、「間違いなく賞が取れる」という選曲の提案のおかげで、課題曲「Let’s search for tomorrow」と、自由曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は、長らくたった今でも、振っていて楽しさを覚えていたことを思い出す。中1の時とは明らかに違って、指揮そのものも、合唱指導も、居心地良くできていたのだと思う。再び学年の最優秀賞をクラスで受賞した。しかし一方で、その練習の過程で、ピアノ伴奏の一人が、プレッシャーからパニックを起こしてしまう、という出来事も起きていた。

同じクラスメイトの構成のまま3年生を迎えた。9月の体育祭で、メインとなる4人5脚と総合得点との両方で勝利したクラスは、その勢いのまま文化祭期間に突入した。当然また、指揮者を務めた自分は、クラスを最優秀賞に導かんと息巻いていた。と、同時に、クラスはある決断をした。担任は、過去の他校での指導経験上、自由曲に「親知らず子知らず」という、歌詞は暗いが完成度を高めるとダイナミックに聞こえる曲を提案した。しかし、クラスの意思決定は、「『翼をください』を、アカペラで」というものだった。伴奏のプレッシャーをなくして、みんなで歌声を合わせたい、という意思決定。

楽譜は、インターネットで見つけてきた。アカペラだから、伴奏がない。その無伴奏を補う必要のあるアレンジを探してくるのは、少し難しかったことを覚えている。これなら大丈夫だろうとチョイスした楽譜は、しかしながら、間奏部分のハーモニーや、男性パートのハモりの音とりが、なかなか難しいものだった。伴奏がない分、音のズレが発生すると、顕著にそれが分かってしまう。かたや別のクラスは、昨年度の優勝クラスが歌った「青葉の歌」をチョイスした。個人的にも好きな歌だっただけに「あぁ、あっちの曲はいいな」と練習中に口から出してしまったことがあった。指揮者の発言として、士気を下げることにつながってしまい、ひんしゅくを買ったことも記憶している。

「緊張して険しい顔になっていると、こちらも緊張する。だから、指揮台に立ったら笑顔を見せてね」

こんな声を本番前にもらった記憶がある。自然と自分は、責任と、プレッシャーと、緊張と、その全てを抱え込んでいたのかもしれない。選曲と、楽譜選びと、そして曲作りと。敗因は、その全てに、自分があったと、今でも思っている。


小学生の頃から、学級委員的な立ち回りに好んで手を挙げていた。だがそうした役回り=「機能」が、必ずしも集団の中心的存在にならないことを、自分は体感してきた。高校生の時は、役割としての学級代表として行事の際の実務的な取り回しは行えども、体育祭や文化祭の際にクラスの精神的支柱となる「団長」ポジションになれることはなかった。何より決定的だったのは、中学時代、生徒会長選挙に落ちたことだった。選挙から1年後、卒業式で、想いを叫ぶ答辞を放った、私を下した相手の姿を目の当たりにした時、自らの「精神的支柱になれる」器の小ささを知った。彼はサッカー部部長だった。

このコンプレックスは、いまだに自分を苛んでいる。あのころよりも溶きほぐしはできてきているが、解脱はしきれていない。常に付きまとう「隣の芝生は青い」と「何者かになりたい」という欲に対して実態が伴わないような感覚が自分の中に蔓延っている。ここでの暮らしもそうだ。自分で自分を、中心に置いておけないように感じとらせてしまっている。そんな状態のまま、シェアハウスでの2回目の文化祭を迎えた。

ただ実のところ、機能を果たすことが自分の持ち味だということを、分かっていて立ち回っているのは自分でも分かっている。住人たちそれぞれの「好き」や「したい」が、誰にも後ろ指を刺されることなく解放されていくことを、自分の持ち味で作り出せたらいい、と、そう思えている自分がいる。それは今年、この物件に身を置きながら、徐々に自分の、癖の強い「好き」や「したい」が、実は受け止めてもらえるんだということに気づいていくことができた、その恩返しみたいなものでもあるのだ。

どうせなんとかなるし、なんとかする。枠組みさえあれば「精神的な中心」がなくとも、個は活きる。

なぁ思春期の自分よ。お前が「情緒的リーダーシップ」を発揮できなくても、「機能」を押さえられているなら、みんなの想いが集まって、物事は進んでいくから。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

母を、思い出せない。 (シークレット・ライター#04 – 作品30)

1991年10月4日。母が亡くなった。

この記憶が、私にはまるでない。もっといえば、母の記憶が、私にはまるでない。

私が生まれたとき、母は里帰り出産をしたようだった。生まれ落ちたのは、東京都立豊島病院。豊島といっているくせに板橋区にある。当然私が生まれた時の建物は古いものだったが、2000年ごろに建て替えられてから、ドラマ「ナースのお仕事3」のロケ地にもなったところだ。ドラマのクレジットを見て、少し心が躍ったことを思い出す。

私が生まれた病院は、母の実家にもほど近いところだった。東武東上線の中板橋という駅を降り、閑静な住宅街を歩くこと10分ほどのところにある弥生町という土地が、母の地元である。母の家から歩けるほどのところに、「ハッピーロード大山」という、都内でも有数のアーケード商店街がある。これを書く上で久々に調べてみて判明したが、なんと再開発のために取り壊しをしているらしい。

母の実家は、どうやら住宅建設業を営んでいたようだ。その詳細はよくわからないまま今に至るが、母の亡き後に母方の祖父母を訪ねていた時の記憶をたどると、建設用重機が駐車場に停められていた記憶がある。母は、3人兄弟の真ん中のようで、結局その家業は母の弟さんに引き継がれたようだった。母の姉は、奈良の方に嫁いだらしく、母方の祖父母とともに奈良を訪れた記憶が微かに残っている。ちょうど、300系新幹線・のぞみが、世に出始めたころだった。

聞くところによると、母の出身高校は豊島岡女子だったそうだ。池袋にある女子校で、近年では東大進学率も高く、医学部進学も多い、女子高としてかなり高い学力を誇る私立だったらしい。なぜかどの大学に進学したのかという情報はわからないのだが、大学生の頃の塾のアルバイトで豊島岡の高い学力レベルを知った際、それが母の出身校だと知ってかなり驚いたことを覚えている。

どうやら母は、茶道と華道の先生をしていたらしい。このことについてはこれ以上の情報がなく、30歳までカメラマンになる夢を追い続けて行方不明になっていた父とお見合い結婚をしたらしいのだが、いったい何が起きたらそんな結ばれ方になったのかについては全くもって謎のままである。あきらかに洗練された都会暮らしをしていたうるわしい女性が、池袋から1.5時間程度の距離とはいえ、北関東の田舎で工場を営む、夢破れた男のもとに嫁いだのだ、いったい何事か、というのが息子としての本音だ。

断片的に聞いた事実を紡ぎ合わせて「こんな人だった」ということを想像できても、私に記憶がない。

なんとなくおぼろげにある映像は、豊島病院の古い建物のガラス張りの入り口から、サーモンピンクのジャージを着た女性がこちらに手を振る姿を、タクシーから見ていたというビジュアルだけだ。悲しいかな、そのおぼろげな映像の中には、触れた温もりも、優しい声も、その顔つきさえも残っていない。

私を産み落としてすぐ、母はほぼ一つ返事で、お茶の水女子大学の児童発達の研究室の調査協力を承諾していたらしい。地元から東北線に乗り、当時1時間に1本だけ走っていた池袋行きを終点まで乗り通し、丸の内線の古い車両に乗り換えて、茗荷谷に至る。少し歩いて煉瓦造りのお茶女のキャンパスに至るというルートを定期的にしていたらしく、それが私の鉄道好きのきっかけだと、私は認識している。

いつだったか、母が私にしたためた手紙のようなものを見た記憶がある。そこには、丸の内線の車両が丁寧に描かれ、やさしさのある言葉が書き連ねられていた。私の好きなもので彩られた手紙は、その下地の色が水色だったような記憶がある。しかし、残念ながらその内容がまったく記憶になく、さらにいえば、その手紙がどこに行ったかまったくわからない。自分の薄情さが、悔しい。

母の死因は、大腸がんだと聞いている。まだ当時、「がん」という病気は、恐ろしいものとして捉えられていた時代だったはずだ。若くして、自らの細胞によって、自らの体が蝕まれていく状況。抗がん剤治療をしたのか、手術をしたのか、まったく聞かされないまま、ただその死因の情報だけが私の記憶に刻まれている。そのせいだろうか、健康には気をつけないと、くらいには思っているものの、それ以上に母について問いを立てることは、私の身には起きていない。自分の薄情さは、もはやなんなんだ。

母の亡き後、茗荷谷のお茶の水女子大学に定期的に出向く日々は6歳まで続いた。母方の祖父母はずっと気にかけてくれ、板橋の実家を訪れるべく東京に向かう日々は、盆と正月の恒例行事となった。池袋の東武デパートで買ってくれた、船橋屋のくず餅とまい泉のカツサンドは、東京でこそ手に入れられる贅沢な味として記憶されている。東京に住まう今でも、その味と光景は、特別なままだ。

そうした思い出や記憶は、母につながるものではあったとしても、母そのものの記憶がそもそもない。だから、思い出しようにも思い出せない。なぜかは知らないが、母が私を抱くような写真に遭遇したことがない。そのためか、母の面影を知る唯一のすべは、遺影に限られている。その遺影でさえ、自宅の仏壇に飾られることは久しく、それもあってか、母の存在を求めて寂しくなる、ということすら、自分の身に起きたことがなかったのだった。

母方の祖父母はすでに十数年前に他界し、そして私の父も8年前に亡くなった。いよいよもって、亡き母のことを直接聞ける人はいなくなった。ただ、私という存在が、亡き母の遺伝子を受け継いでいるのみになっている。生きていれば母は、私を小学校から私立に入れたかったそうだが、結果そうならずとも、納得感のある人生を歩めていることだけはせめて、亡き母に誇れるようでありたいと思う。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。 (シークレット・ライター#04 – 作品12)

気がつくと、東京方面の京浜東北線に足を踏み入れていた。上野駅で降りて銀座線に乗り換えるには、先頭車両はとても都合がいい。森山直太朗の「さくら」が流れる、天井の低いホームで電車を待っていると、レトロ感のある黄色い車両が流れ込んでくる。ちなみに私は高校生の頃、森山直太朗の曲を弾き語りしていたことがあった。「太陽」と「今が人生」が好きだ。

浅草に行ったところでさしたる用事はない。浅草寺をお参りするでもなく、仲見世を楽しむでもなく。というか浅草寺も仲見世も、昼間に行きようもんなら身動きが取れないほど人の波に苛まれてしまう。そういえば大学生のころ、連携協定を結んでいたドイツの大学から短期フィールドワークに来ていた学生のアテンドで浅草寺にいったとき、寺の敷地の中にある神社(そもそも神仏習合ってすごいよな)のしめ縄を指さされて「あの白いギザギザした紙の形の意味はなんだ」と聞かれて、「知らん」と答えたことを急に思い出してしまった。

用事がないのに浅草に出向いているのは、ただただ、大黒家の天丼を食べに行くためだ。

大黒家は、伝法院通り沿いにある。仲見世を、雷門方面から進んでいくと、両サイドにあったはずの店が、ある交差点を境に右側にしかなくなる。その交差点で、仲見世通りとクロスしているのが、伝法院通りだ。浅草寺方面に向かっていくとき、その交差点を左に見ると、頭上にでかでかと「伝法院通り」と書いてあるのでわかるはずだ。仲見世を左に曲がり、スカイツリーを背にしながら、浅草ROXが見える方に伝法院通りを進んでいく。そうすると、コロッケを買ってその場で食べる人だかりに遭遇するはずだ。昼間は歩行者天国になっているから、ここが道だということを忘れるほど、人が溢れる。

そんな伝法院通りを進むと、左手に「大黒家」の看板と、二階建ての古い家屋が目に入ってくる。ちょうど丁字路の角にあるその店の向かいには、デフォルメ似顔絵の「カリカチュア・ジャパン」がある。正直にいえば、あそこでデフォルメ似顔絵を嬉々として描いてもらっているカップルの気がしれない。そんな似顔絵屋を横目に、決して大きくもない引き戸を開けて店に入ると、決して大きくもないテーブルと椅子が所狭しと並んだ、昔ながらの風情の空間に案内される。

ちなみに、私は大黒家に、ランチタイムを狙っていくことは、まずない。並ぶ。観光客で並ぶ。インバウンド観光客も多い。旅行雑誌やネットメディアで紹介されているんだろう、つまり、そういう店だ。そもそも昼に行きようもんなら、仲見世の混雑に巻き込まれる。そもそも私は仲見世を通らずに至る。

ただただ、あの、真っ黒い天丼を食べるためだけに、ここに来る。安くはない、海老天2本と、小エビと貝柱のかき揚げ、という構成の天丼で、2,200円する。そのくせ天丼なんて昔のファストフードみたいなもんだから、長居もできたもんじゃない。それでも、あの天丼を「むしゃくしゃ」したいのだ。

あの天丼を表すオノマトペは、やっぱり「むしゃくしゃ」だと思う。天ぷらのくせに、サクサクしていない。あれはむしろフリッターというべきだろう、衣がしっとりとしている。そして何より驚くのは、真っ黒い、ということだ。天ぷらといえば、黄金色の衣に、タレが線状にかかっているビジュアルを思い浮かべるだろう。しかし、大黒家のそれは、おそらくだがタレにどっぷり浸かっている。そしてそれ以前に、ごま油でしっかり揚げられていることもあって、だから色が濃い。だが、もっと驚くべきは、味がいうほど濃くない、ということだ。

「大黒家」とネットで調べると、変換を間違えて質屋が出てきてしまう。「浅草」とキーワードを追加してまた調べると、食べログのページが出てくるが、口コミで絶賛されているわけでもない。なのに、ここに足繁く通ってしまうのは、ここがどこか、自分にとって「東京」を感じられるからなのだろう。

私はある時代に3年間、東京ではない土地で暮らしたことがある。関東に帰省する際に東京を通ると、必ず大黒家で「むしゃくしゃしてやった」。自分の心の置き所は、実は東京にあるのかもしれない、と異なる土地に居ながらも感じていたのだろう。怒りに任せるような聞こえのする「むしゃくしゃ」を鳴らしつつも、どこか安心感を覚えていたのかもしれない。

食べるたびに毎回、インスタに写真をアップする。その度に「むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。」とキャプションをつける。しかし、2021年11月29日は、少しその様子が違った。

「むしゃくしゃしてやった。ほんとうに、むしゃくしゃしている。」

 

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福岡に身を置いていたその当時、キャリアチェンジを図ろうと、2度目の国家公務員の中途採用試験を受けていた時期。人事院が実施した試験を突破し、各省庁の「官庁訪問」を受けていた。2020年は文部科学省一本勝負をして念願が叶わず、そして2021年には文科省と経済産業省、そしてデジタル庁の門を叩いた。文科省と経産省はオンライン面接だったが、デジタル庁がまさかの対面の面接。「デジタル」とはいかに。それで面接を受けたあと、経産省からもデジ庁からもお祈りの電話を受けたあと、自然と足は大黒家に向かっていた。なお文科省からはすでにお祈りされていた。「今年も、だめだった。」

罪悪感のある、真っ黒い天丼。海老好きの私にとっては贅沢の極みとも言える2本の海老天と小エビと貝柱のかき揚げをたらふく食べても、「反省はしていない」と言い切ってしまう。ここで、好きなものを食べることくらい、日ごろの「むしゃくしゃ」を思えば、許されたっていいはずだろう?

いつか、「むしゃくしゃ」したからではなく、純粋に自分の願いが叶ったことへのご褒美として、天丼を食べたいものだ。とてもどうでもいいが、大黒家の娘さんは夢を叶えて声優をしているらしく、このことをコミケに出展した日の帰りに大黒家に立ち寄ったときに知った。年末に大黒家で「大黒家」を調べていたら、店主の娘がコスプレで有明にいたらしい、という衝撃。好きな天丼を出す店の関係者が夢を叶えているのだとすれば、そのうち私だって、報われる日々がやってくると信じたいものだ。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)