民の自立:さみしいから「共」に資するんだ

久々の更新は、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス「福沢諭吉と現代1」の最終課題としてついさっき提出したものです。ちょっと、読んでほしいなぁって思って、そして自分の思考の足跡のためにも、ブログに貼ることにしました。今学期は、修士論文で死にそうになったため、SFCの修士科目をはからずもドロップアウトしてしまいました(反省しています)。しかし、この講義だけは、6年間を慶應の湘南藤沢キャンパスで過ごしたことの集大成として捉えたかったので、何度か欠席しましたが大切にしていました。

もうほんとに、SFCを卒業しなきゃいけないんですよね。


「民の自立とは、一方ではさみしいんじゃないだろうか」

最終講義で私が提示したことである。しかし、そうしたさみしさをみじんも感じられないほどに、私が講義を聴いたゲストスピーカーの方々は、それぞれに輝きを持ちながら自立を語っていた。スルガ銀行の岡野社長は自立とは頼らないことだとおっしゃった一方で、「おたがいさま」を提示していた。自立とは、ただ「誰にも頼らずに一本立ちすること」なのだろうか。この解釈を誤ると、全てを独りで背負い込むことにつながってしまうかもしれない。
独立自尊、自我作故、そうした福沢諭吉の残した概念は、単に独りであれやこれやとすることを指している訳ではないだろう。現に福沢諭吉は、慶應義塾の学びの中核概念に半学半教を位置づけている。一歩先をいくものが教え、まだ未熟のものが学ぶ。しかしここには「独りであれやこれや」ということが現れていない。とすると、福沢諭吉の示した「民の自立」とは、個々人が独りでも生きていけるようになる生き方の問題だけではないのかもしれない。

リビング・ワールドの西村さんの回は、サンフランシスコの街並の写真が導入部であった。ここで示された、公・共・私の領域の区別が、「民の自立」とはどのようなものかを捉える手がかりになると考えている。彼の話の多くの部分は、相手を・自分をどんな存在として見ているか、ということがらに軸をおいていたように思う。人とのかかわりあいにおいて重要なのは、自分が相手をどんな存在として見ているかであろう。それはとりもなおさず、自分が自分をどんな存在として見ているかにつながってくる。
社会とは人間の集合体であり、むしろそれ以上の意味合いを持っているものであるが、しかしその空間は明らかに「私」ではなく、相互行為によって調整だったり協力だったりを繰り返す必要がある場所である。時には衝突もするが、それすらどうにか折り合いを付けなければいけない。それこそが「共」の空間であり、だからこそ余計に、接する人間という存在をどう見るかということが必要になってくるだろう。

自立は、自分自身で立つということである。それには、立てるだけの能力を有しているかどうか、自分自身で分かる必要があるし、自分自身で立つ勇気の裏にある自信は、そうした能力を自覚しているからこそ出てくるものなのかもしれない。時にドット・ジェイピーの佐藤さんは、大学生時代に「自分が何をしたいか分からない」ことから社長のかばん持ちに飛び込んだ。それが現在の彼の活動に至るまでにおいて、それらの活動のミッションは後づけで、実際は周囲からの求めによって動いてきたと彼は語った。その彼が「立てるだけの能力を有しているかどうか」を自覚していたのかどうかは賛否が分かれるだろう。それでも言えることは、彼は周囲の人々のニーズに応じて自分が動くという能力を有していたし、「なにがしたいか分からない」ということを自分で理解していたということである。

「私」の自立とは、おそらく自分自身を理解することなのだろうと考える。その一方で、自立している人はどこか「共」に資する姿勢を見せているように感じる。「じぶんごと」に手一杯になるだけではまだ自立しているとはいえず、「じぶんごと」に余裕が生まれ、その部分を「共」に還元していくところに、「民の自立」の本質があるのではないだろうか。
岡野社長が「頼らない」とした相手は「公」であろう。「民」の対概念もまた「公」である。しかし、「民」は「私」を指しているのではなく、むしろ「共」を指しているように思える。玉井先生が諭吉と現代2の席で示した「新しい公共」の説明は、公に担いきれなくなった部分を民が担っていくことで歳出をそもそも押えようとする動き、というものだったと記憶している。この考え方に基づけば、「共」が「公」に頼らずに社会を動かすことが「民の自立」と呼べる状態なのかもしれない。この点で、岡野社長の示した「頼らない」ことと「おたがいさま」は相反しないということが分かる。というよりも、「頼らない」と「おたがいさま」は次元が違うことが分かる。

一身独立して一家独立、一家独立して一国独立。学問のすゝめで福沢が示した学問の意義は「立身出世」の4文字に集約されるだろうが、それは「私」空間における話ではないと思えてくる。福沢が目指したのは、学問を通じて「共」に資することのできる人財の輩出だったのかもしれない。ただ、そうした「共」に資する人財となるためには、単に「独自に」なるのでは意味がない。むしろ「さみしい」と感じるくらいに他者との関わりを持ち、そうした他者に資することを求めるところにこそ、「民の自立」の担い手が生まれるのだろう。

さみしいからこそ「共」の空間に資する。そこに自立を見いだした、6年間の締めくくりであった。

「研究デザインのはなし」のスライドをアップする

慶應義塾大学SFC古石篤子研究会に所属している私は、大学院2年生の最終学期に当たり、なにか研究会のみんなに、そして研究会自体に貢献したいな、と思っておりました。個人研究が主体の古石研でしたが、私自身3年生の春から所属し、大学院に入ったあたりで、うちの教授が「多言語活動」というものに興味を示し、取り組みだします。

これは、チャンスだ。そう思いました。

個人研究をしているだけでは、なかなか一丸となって研究会に臨むという事が出来ないし、継続履修にもつながらない。なにか分かりやすいプロジェクトを前面に出す事で新規履修者も獲得出来るかもしれない。なにより「多言語活動」という活動がおもしろい(詳しくは、古石研FBページをご覧ください)。

「多言語活動をプロジェクト化しましょう」と先生に伝えました。それは、研究会として多言語活動プロジェクトにフルコミットする訳ではなく、あくまで「研究の一例」として多言語活動プロジェクトにみんなで取り組み、そこから得た知見を学期の後半で個人研究に活かしましょうよ、という提案でした。理論を文献でおさえ、活動案を実際に制作し、また子どもたちへの効果を評価する、という一連の流れを、個々に異なるテーマでの個人研究に活かせる、ということです。

んなわけで、とくに最後の学年である2012年は、このマインドで研究会に貢献しようということで、KJ法を応用した質的データ分析のワークショップと、ORFヘの出展プロジェクト、そして研究デザインに関するワークショップないしプレゼンを学部メンバーに対して提供してきました。

特に、研究デザインと分析WSはポイントだと思っています。なぜなら、「やり方も知らないのにいきなりは研究出来ない」、いいかえれば「経験も浅いのにタームペーパーを書くのはツラい」ということなのです。ある種のマインドセットがないと、タームペーパーの執筆というのはツラいもの。だからその考え方と方法を研究会内でシェアしようと思ったのです。

以下のPDFは、つい先日「研究デザインのはなし」と題したプレゼンをした際のスライドです。このスライドの内容は、僕自身がこれまで数本のタームペーパーと卒論を書くなかで考えてきた事をまとめたものです。しかしこれらは自力で身につけた訳ではなく、いくつかの授業の影響があります。例えば清水唯一朗先生の「方法論探求」や金子郁容先生の「概念構築(リサーチデザイン)」、山田ズーニー先生の「プレゼンテーション技法ワークショップ」といったものです。つまり、すべてSFCで得てきたことなわけです。

おかげさまで僕も、こんなのが書けていっぱしに学部生にそれを伝えていけるだけになりました。まだ道半ば、修論を頑張らねばならないのは当然として、研究会において共有知を蓄積していくことに精を出したいと思います。すべては、メンバーそれぞれにとって、納得のいくパフォーマンスのために。

子ども国会の想い出

この文章、本当は9月のアタマに書くつもりで、最初は9月1日の社会言語科学会の道中でキーボードをたたいていましたが、いつの間にか10月になってしまいました。とにかくそのときも今も、感じることは、夏が早く過ぎた、ということです。

この夏は、僕にとっては学生最後の夏休み。多くの学生は海外に行くとか、遊びまくるとか、そういう過ごし方をするのでしょうが、僕の場合はちょっと違っていました。特に7末〜9月には、私にとって想い入れの深い出来事がいくつか起こりました。そのことをまとめたいと思います。最初は、忘れもしない12年前の再来について、つまり、参議院主催・子ども国会にOBとして招待を受けたことをお伝えします。

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10月になって、研究を考える話

夏休み中にはブログを更新するつもりがあったのに、その記事を準備していた9/1からはやくも1ヶ月が過ぎてしまいました。着実に年齢を重ねていることを感じる一つの現象に、時間が短く感じることがあげられるでしょう。それでもまだ若いと言えるのは、やれ仙台、やれ京都、そういう遠いところへも鈍行電車で行けてしまうことでしょうね。実際、この前の夏休みのうち、9月は毎週末、仙台・京都・伊豆・箱根と、遠出ばかりしていました。

「10月から本気出す」という文字が踊ったであろうネット界隈にどっぷり浸かってしまいながら、いよいよ10月も1週目がすぎてしまいました。夏休みの計画などすべて倒れたままになり、そのまま気分も夏のままに秋を迎え、いろいろなことが降り掛かってきます。テンションが切り替わらないことは本当に危険なことです。

なにせあと10日もすれば修士中間発表です。修士研究の計画は計画倒れになるんじゃないかというくらい進んでおりません。まだ、データがあるだけいいですが、分析を進めるにもどう分析すればいいかなんて分かりませんし、また僕は本を読むのが苦手なので、知識を貯えることが本当に難しいです。お世話になっている先生が、修士論文は「これだけ勉強しました、ゆるしてください」というためのものだと言っていましたが、許しを請うほど自分の主たる研究テーマについて文献を読んでいないというのが現状です。ああ、つらい。

主たる、と言いましたが、実は私はこの夏に2回学会発表をしており、うち1回は自分の研究テーマとはまったく関連しない、しかし関心領域と合致する「活動」について発表してきました。あの、prayforjapan.jpの多言語翻訳プロジェクトです。自分自身があのプロジェクトに関わりながら、その責務を果たせなかったことへの後悔がいまだに残っていながら、発表を通じて多くの反響を得たことで、自分の活動の意義を再確認することにつながりました。そしてあらたな責任も生まれました。

考えてみれば現在までで、大小あわせて4つの学会発表を修士の間に行い、うち2回は自分の研究テーマとは異なります。どうしてそうも頻発できるのか、と考えたところ、自分の主な研究テーマである「英語インタラクティブフォーラム」を含め、すべて実践が先にあるもので、理論による価値付けを後追いで行うという形で無理矢理研究に化けさせるということをしていることに気がつきます。社会に通じるものとしての研究、自身が感じる問題を解決する手段としての研究、というスタンスにたてば、かなりSFC的であるといえますが、しかし学問とは本来は知を重ねることで、まっとうに勉強し研究されている方々を目の当たりにすると、ますます僕は職業研究者には向かないな、と思うのです。

この間、研究室で先生と話しながら、遠藤は研究の社会的価値付けや突飛な方法論を思いつくのは得意だ、という話になりました。確かに僕は、自分の研究を棚に上げておきながら、かつこれまでの学問の蓄積を度外視しながら、しかし自分ならこうするだろう、という方法を思いつくことに長けていると思います。それはものすごく面白いことながら、しかしものすごく危なくてもろいことだと思います。でもこれを、どこかで活かせるようになったらいいいな、と思います。

大学院は何のために過ごすのか。それはプロフェッションを身につけるためだと思います。そう考えると、私は何のプロフェッションを身につけたのだろう。

10月1日の内定式が延期になったことで、より自分が4月からリサーチ会社で働くということについて意識するようになりました。僕は職人志向が強い方だと思うので、圧倒的なオンリーワンの人間を目指したいと思っていますが、しかし僕は何のプロフェッションがあるのだろうと考えるようになるのです。そして思いつくのは、「実践のプロフェッション」と「アイディアのプロフェッション」なのだと思います。つまり、なにかの学問領域を専攻として極めた意識はこれっぽっちもなく、むしろなにか強烈な社会意識に基づいて体を動かしていた方が長かったと思います。決して仕事は速い方ではありませんが、フットワークの軽さには定評があります。その点で、SFCの大学院が僕にくれたのは、いわゆるSFC的な人間になることをさらに追求する環境だったのかもしれません。

しかし、つべこべ言わずに研究に埋没する必要がある今、早く夏時間から自分を戻して、ただ悶々と考えることで体を温める冬にモードを移さなければいけません。うう、いやだいやだ。

 

気がついたら、もう少しで23歳が終わる

そしてもうすぐ、年男になります。

22歳の終わりごろに、311という経験をしてから、23歳になってからの1年はプロジェクト結とprayforjapan.jpと就職活動を中心に回っていたように記憶しています。大学院生の1年目として、新しいステージに立った1年間だったと思います。

これらの、プロジェクトと就職活動の同時並行は、自分にとって様々な気づきを与えることになりました。自分がどういう行動をするのか、どういう傾向があるのか、そういうことを自分なりに理解しながら、一方で理想と現実のギャップに押しつぶされそうになっていることも多々ありました。

毎年毎年、歳は取ります。
ですが、毎年毎年成長しているかどうかを実感することはなかなかできません。

後から振り返った時に、この23歳の1年間が自分にとって大きな意味を持つ1年間だったことは気づくことになるんだと思います。しかし、23歳の終わりの日のこの時間が、あまりにもいつも通りに過ぎていくもんだから、はて今年1年なにがあったかなぁと感慨にも浸れません。

世間的にはいい大人の一員なはずです。ただ、大学に6年もいるもんで、まだまだ自分は若い(しかも子どもとして若い)と勘違いをしています。年齢的に社会人であってもよい自分は、しかし大人とは何かがまだまだ分かっていないな、というのが正直なところです。それは、プロジェクトに関わるということと、就職活動をすることと、その両方によって強く感じることができました。

ところで、23歳の1年間は、交友関係がひろがった1年間だったとも言えるかもしれません。311以後の日本のキーワードが絆だったように、これほどまで人間がなんらかの「絆」で結ばれているということを思い知るようになりました。思わぬところで人と人とのつながりの狭さを感じることも多くありました。それは、自分から外に出るということを積極的にやっていったことの裏返しなのかもしれません。

毎年のことですが、誕生日は自分が生を受けたことに感謝すると同時に、前年の誕生日から今年の誕生日までにお世話になった人に対して感謝の念を再認識する(と同時にその感謝の表現をちゃんと行動で示していない自分に対してガン萎えする)日だと思っていて、自分については決して祝われるような日ではないと思います。私は祝われるほどの人間ではありません。むしろ、たくさんの人がいるから生きている(あるいは生かされている)ことをこちらから感謝したいと思います。その感謝を示すべき人は、今年になってかなり増えました。

23歳の1年間、本当にたくさんの人にお世話になりました。
ありがとうございました。

父が病に倒れ、祖母は目の病にかかり、母は仕事に忙しく、弟はアルバイトをやめざるを得ない時期があり、妹はなんと総合体育大会地区予選前に指を骨折し、そして私は精神のバイオリズムを崩すことも多々ありました。私の家庭は波乱に満ちていますが、しかし喜ばしいことに、みんな図太く生きています。

残念ながら、来る24歳は厄年本番です。解釈のしようですが、平成24年は半分過ぎましたから厄年の苦行はあと半年とも言えますが、とはいえ何が起こるか分かりません。それでもとにかく図太く生きること、これだけは守っていきたいと思います。

24歳の遠藤忍も、どうぞよろしくおねがいします。

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拝啓、選挙に関係する皆様。 #One_voice #学生100人ブログ

私は、インターネットを使用した選挙活動に賛成します。
んなわけで、「One Voice Campaignについて思うことを学生100人で書く」という活動に賛同してこれを書いております。
私は、このプロジェクトに賛同しています。

しかし、思うところもいくつかあります。

どうすればインターネットを使った選挙活動を推進できるか。
それを考えた結果、乗り越えるべき問題は、以下の三つにあると思いました。

公職選挙法の問題
政治家がインターネットを活用しきれていない
インターネットが真に民主的じゃない

これを、それぞれのアクターに向けた手紙として書いてみました。
ちょっと、読んでみてください。

それから、「One Voice Campaignについて思うことを学生100人で書く」というオンラインイベントへの参加を希望する方はぜひ、私までご連絡ください。また、OneVoiceについての詳細は以下を見てください。

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学費のクラウドファンディング「 #studygift 」について思ったこと

話題になった、学費のクラウドファンディングについてのつぶやきがFacebookに反映されなかったので、いっそブログにまとめてはっつける。
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studygift の件だけど、「坂口さん本人について」と「プラットフォームのあり方について」と「学費と大学選択について」と「学費と奨学金制度について」と、論点は分けて考えた方がいい気がしている。もちろん後者三つは相互関連性が高いのは当然だが。

「坂口さん本人について」は、正直よく知らん。でもこれってCampfireとかJustgivingみたいなものだという観点からすれば、坂口さん本人を応援したい人は応援すればいいと思うし、少なくともググタスで一番になっている時点で素直にすげぇとは思っている。

「プラットフォームのあり方について」1:僕は大いにアリだと思う。応援したい人が応援を受けたい人を応援する、ってだけの話で、税金みたいにみんなのお金が出るわけじゃない。しかも、応援したい人が増えれば増えるほどパイは広がるから競争という訳じゃないと思う。

「プラットフォームのあり方について」2:でも応援を得るためには努力が必要。多くの人が、悪く言えば恣意性をもって、顔が見える形で資金を投資するのだから、目標設定やビジョン、経過報告は必要になる。でも、それが学生自身の学びのブラッシュアップになると思う。

「プラットフォームのあり方について」3:でも、本人の努力を要すると言う点では新自由主義的な考え方とも言えるから注意はしたいところ。本当に手を差し伸べるべき人には奨学金を。クラウドファンディングで応援を得られる人にはクラウドファンディングを。

「学費と大学選択について」:当然国公立が安いわけだけど、だからといって求める学びが国公立にあるとは限らない。学費が高いからって私学が選ばれないとすれば残念だし、それ以前に親に負担をかけて大学に行くことが当然になりながらも後ろめたさを感じる学費の高さは怖い。

「学費と奨学金制度について」:だから奨学金制度があるわけで、学生がお金を心配せず学業に打ち込むことが目的なのも分かる。でも昨今、ABCDの学業成績や研究実績だけで大学生の学びを測るのは少し時代遅れだから、別の観点で評価して資金調達できる仕組みはあってもいい。

で、「だれかがすることへの賛成/反対」を言うだけでは全く無意味なので自分にできることを考えると、プラットフォームに賛成しているから応援資金を出したいところだけど、他人に出すお金があったら自分に回したいから、働いて学生支援機構奨学金を返すまで待ってください。
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特に最後の、他人事について賛否を論ずるより自分ごととしてできることを考えろっていう主張は、最近よく考えることなのだ。

学生ガイドというお仕事

はじめにご理解いただきたいこと

まず、この記事を書くこと自体、相当なリスクがあることを私は認識していると宣言しておきます。その上で、この記事は、遠藤忍という一個人の見解であり、慶應義塾が組織としてもつ見解とは全く関係がないことをお伝えしておきます。くどいかもしれませんが、ここに書いてあることは全て遠藤忍の認識ですので、慶應義塾が公式に考えている見解であると勘違いをされても、当方はおろか慶應義塾でさえも一切の責任は負いません。

と、ここまでの注意書きを書かねばならぬほど、学生ガイドという職責をやらせていただくことには責任が伴うというのが事実です。大学の進路選択は、人生の選択において大きなウエイトを占めるものの一つですから、その情報を与える機会に携わる者は、本当にシビアなリスクヘッジが求められます。

それでもなお、私がSFCの「学生ガイド」を皆さんにお勧めするのは、自分自身が学生ガイドという職責に対して、かなりの誇りと自信をもっているからです。それはつまり、慶應SFCというキャンパスに対して、その建物もカリキュラムもそこにいる人も、すべてひっくるめて、誇りと自信と愛を持っていることと同じことです。自分が誇りを持って生活をしているこの場所の魅力を、その場所を代表して伝える、ということの達成感と快感は非常に大きな自信を与えてくれます。

学生ガイドって何をするか

一言でいえば「オープンキャンパスのスタッフ」です。

オープンキャンパスは、主に高校生に対して、このキャンパスはどういった場所なのか、ということをお示しする機会です。当然、やってくる高校生や受験生は、このキャンパスの学部を受験候補に入れている人々ですから、大学での学びや大学生活に関する情報だけでなく、入試にまつわる情報も提供しています。

入試にまつわる情報は、学生には絶対に触れられない領域です。個人的体験でさえ、話していいライン/悪いラインがあるくらいなのです。では学生はどこの領域で活躍するかというと、大学生という立場から、大学の学びや生活に関する情報を提供する部分です。そのためにSFCの学生ガイドに与えられているツールが4つあります。

  • キャンパスツアー
  • コミュニケーションコーナー
  • θ館ホールでの学生企画
  • 学生ガイド作成パンフレット

巷のよくありがちなオープンキャンパスの学生スタッフは、事務方がお膳立てしたオープンキャンパスのプランにそって、単なるスタッフとして働くというパターンが多いと思います。しかしSFCでは伝統的に、事務の担当部署の皆さんにオブザーブしてもらいながら、上記4つのツールを自分たちで企画・プランニングしていきます。そして当日は、組まれたシフトに則り、また公式スタッフとしての規範に則りつつも、自主的な動きが期待されます。

愛して止まないキャンパスツアー

そんな中、私は長らく「キャンパスツアー」に対して心血を注いできました。自慢になってしまいますが、現在では新規学生ガイドへの「模擬ツアー」の実施を任せていただくなど、同じ学生ガイドからも、また事務方からも、教員からも、遠藤のツアーがSFCで一番だ、と認識されています。それほど思い入れが深く、また自信も強く、それでいて責任も重く感じています。

キャンパスツアーは、単に建物を回るだけではいけないと思っています。いかに熱心に、取り組むか。いかにキャンパスの情報を建物の紹介に織り込むか。いかにキャンパスを楽しい場所だと思ってもらえるか。そして、もっとも重要なこととして、いかに来てくてた受験生がキャンパスで学ぶ姿を自分で(あるいは親御さんが)イメージできるか。そのためにも、面白く、印象に残りやすく、魅力あふれるキャンパスツアーをつくりあげることに自信をもっています。

ここまで熱を注ぐのは、それが楽しいからという理由が一番です。しかし、そのきっかけは、自分にとっての高校時代最初で最後だったオープンキャンパスであるSFCのオープンキャンパスでのキャンパスツアーにありました。

「ここに入学して、このキャンパスツアーがやりたい」

実はSFCの現地に赴いて感じたことは、ここで学びたい、ということ以上に、キャンパスツアーをしたい、ということでした。建物に感動したとか、カリキュラムに感動したとか、人に感動したとかではなく、キャンパスツアーがやりたかった。そうした想いが確かに6年前に生じていました、というかむしろ自分がツアーをしているイメージがわいていました。そして念願の入学、学生ガイドへの応募、オープンキャンパス当日になり、そこから私のジャングルクルーズ的キャンパスツアーが始まったわけです。

学生ガイドをやってよかった10のこと

それで本題なのですが、このポストをしているのは学生ガイドを現在募集しているわけで、その締め切りがなんと明日というわけで、書いております。そうするからには、お勧めできるポイントを挙げてみようと思っております。

  1. キャンパスのことがとても好きになる
    これは当然のことですね。キャンパスが好きでなければできる仕事ではありませんし、そうでなくてもやっているうちに好きになります。でも、好きになるということは、魅力だけでなく、デメリット部分も知っておく、ということです。他大学や他学部とSFCとを比較する視座がついて、何がよくて何がダメなのかに客観的になれます。だからこそ、好きになれるのです。
  2. SFCの制度や仕組みがよく理解できるようになる
    SFCの履修をはじめとする制度、サークルの存在などがよく分かります。ほぼ全ての選択を自分でしていくSFCでは、制度をちゃんと理解して自分の選択に責任を持たなければいけませんが、時おりそれができなくなるときがあります。それで大変なことになっている学生をたくさん見るたびに、SFCの制度をよく理解しておくことの大切さを痛感します。SFCで損をせずに生きていくうえでは、必要な知識を得られるでしょう。
  3. キャンパスのうんちくをたくさん知るようになる
    20年前にできたSFCには、たくさんの想いがつまっています。また、20年分の想いやできごとも詰まっています。それらをうんちくとして知っておくと、SFCに対する想いが広がるでしょう。自分がどんな想いがつまったキャンパスで過ごしているか、ということを知ることができます。なにより、うんちくをしっていると知識をひけらかすことができて優越感に浸れます。
  4. 自主的に動くやりがいを得られる
    学事のみなさんとの相談をしながら、学生が自主的に企画を組んでいくのがSFCのオープンキャンパスの特徴です。話に聞く限り、そうした工夫は他の慶應のキャンパスでは見られないそうです。キャンパスツアーに関する工夫は私が責任を持って嗜好を凝らしています。そんなことができるのは、学生スタッフが自主的に動くことができるからで、その分のやりがいを大きく感じます。
  5. 臨機応変な対応ができるようになる
    イベントには突発的に対応せねばならないことがたくさんあります。たとえば熱中症をはじめとする急病人対応や、残念ながら発生してしまう不審者対応。そうでなくても、来場者に突然質問を受けることもあります。そうした突発的なことへの対応は、臨機応変さを身につけるのに格好のチャンスです。また、学生ガイドにはBLS講習が必修となっているため、ちゃんとした知識をつけることができます。
  6. プレゼンテーション能力があがる
    学生ガイドはかならずそのシフトにキャンパスツアーを入れられます。つまり、キャンパスツアーの30分弱、喋り続けることを求められます。そのための練習会・トレーニングもなんども組まれます。もうこれで、否が応でも30分間人に喋り続けることができるようになります。
  7. 恥を捨てられる
    私が行っているキャンパスツアーが模範になってしまったせいで、かなり色々喋るツアーとなってしまいました。それがカルチャーとして定着すると、冗談も言わなければならなくなってしまいます。また、練習会は平日のキャンパスで行いますから、他の学生も見ています。知り合いにも会うかもしれませんが、恥ずかしいとは言わせません。プレゼンテーション能力が上がるということは、つまり恥を捨てることにもつながります。
  8. 受験生と接することでフレッシュな気持ちになれる
    目を輝かせた高校生たち。子どもの進路に真剣になる親御さんたち。そういうみなさんにきちんとした情報を伝えることが学生ガイドの使命になります。そうした皆さんと接することで、特に目を輝かせた高校生たちの希望に満ちあふれた顔つきと「こんなことを勉強したいんです!」という熱い想いに接することで、こちらのモチベーションも上がってきます。
  9. 学事の皆さんがどんなことを常に気にしているかが分かる
    学事の皆さんとお仕事をすると、慶應義塾が公式に行うということにおいて、何がよくて何がダメなのかが分かるようになります。得てして大学生は、大学当局の対応について、杓子定規だとかなんだとか思ったりするものです。時にはキレることもあるでしょう。しかしそのうらにはちゃんと意図がある。その意図を汲み取れるようになるだけで、オープンキャンパス以外のシーンで学事窓口に関わる時にも気持ちよく接することができます。
  10. ちゃんと給与が出る
    何より。これはボランティアじゃない。オープンキャンパス当日は大学公式のアルバイトとして、慶應義塾からの給与明細を受け取れます。

こんなメリットを享受できる学生ガイド。
みなさんも応募してみてはどうでしょうか。

追伸:もしも気が向けば、enshinoチョイス・キャンパスツアーのネタベスト10でも書きますね。またあとで。

prayforjapan.jp多言語翻訳プロジェクト終結に関する経緯のご説明

皆様、

prayforjapan.jpの多言語翻訳プロジェクトについて、まとめ人をして参りました私、遠藤より、みなさまにプロジェクトを終結させる決定を行いましたことをご報告します。本年4月25日までに、総仕上げとしての翻訳を行った後、本プロジェクトは一旦終了とさせていただきます。その経緯説明という形で、長文の記事をアップしました。お時間のある方のみ、ご覧下さい。

なお、プロジェクト終結までの実作業については、Facebookのprayforjapan.jpページにおいて詳しくご説明しております。こちらは、遠藤の個人的な回想と反省に満ちた【言い訳】ですので、その点ご留意下さい。

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