信念。それが故の挫折。

一つ仕事に区切りがついたので、振り返りとアンカリングのために、ぐだぐだと書きました。仕事の区切りがついた金曜日の後、オフサイトでの振り返り研修が2日続いて、きちんと振り返ることって必要だよなと思って、それに触発されたので書いたところ、軽く5000字を越えてしまいましたが、ご興味がありましたらご査収ください。

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2015年の「わたしのしごと」

年末ですね。だいたいこの時期になると、Facebookでは年末のご挨拶と共に振り返りをする人が多く見られます。私もだいたい年末ポストを作成しようとしては、それが遅くなってしまうことで結局年明けに更新することが多かったのですが、今年位はこのタイミングで「書き切ろう」と思います。

良い振り返りというのは本来、以下のようなプロセスをたどると思います。

  • 目標を立てた上で行動をし、その目標と実際の行動の差分を事実として捉え、その差分が生まれた要因を特定して、次の目標達成のために必要な教訓を一般化する
  • 起こった事実・事象を、「うまくいった」「うまくいかなかった」に分類し、それらがうまくいった/いかなかった要因を特定して、明日以降へのアクションプランを立てる

しかし大変残念なことに、私はこの手の振り返りがてんで得意ではなく、つまり、そもそも目標を立てて走り出すタイプでもなければ、アクションプランをつくるということに抵抗すら覚えるタチなので、イケてるビジネスマンの類にはなれません。

ようやく最近になって再認識したのは、自分の行動の根源が「ちやほやされたいだけ」ということなので、結局は自尊心を保つためにも「自分がなにをやったか」という成果にたいしてニンマリしているのが気持ちいいんですね。なので今回は、そういう振り返りにしたいと思います。

そう、「これ、俺やったったわ〜」という、2015年の成果を集めました。

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備忘録的に考える「ジブンごと化する」こと、とは。

最近はなかなか考えることが多い。人事の中でも、企てる系の仕事が多くなってきて、何のために行うのか、効果はどのように現れたのか、ということを考える。そうすると、概念的な「コンセプト」とか、「スタンス」とかを、どうやって身につけてもらうかを考えねばならない。それでいうと「仕事をジブンごと化する」というスタンスをどのように体現してもらうかは、本当に難しいトライだった。ちょっとその辺に関して、今思っていることを吐き出すだけ出し切ろうと思う。 続きを読む

わたしのしごと

だいたい筆を採るタイミングが、なにかこう、思い悩んだけど自分を鼓舞したいときや、あるいはこう、自問自答をした結果を誰かに聞いてほしいと思う時になってきた気がする。大学生の頃に比べて、対外的な発信量は減ったし、記事をあえてFacebookでシェアするのもどうかなと思うようになったので、反応が全くなくすごく切なくなるが、それでも残したい想いは、残さなきゃいけない。といっているそばからこれを書き上げて、Facebookにはシェアをするのはやめようと思うけどTwitterにUpしている自分がいて、なんとまぁちっさいやつだなぁと思う。あと、最近仕事で使うLet’s Noteのキーピッチに慣れてしまったせいか、今MBPでこれを書いていて、とても打ちにくい。どうしたものか。

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2015年の夏休みにおもったこと

60分一本勝負で、思うところを書いてみようと思う。しばらく離れてしまっていたアカデミーキャンプや福島ドラゴンボートアカデミーに対する、なんともいえない申し訳なさがあってか、夏実施のキャンプについて「大人手が足りない」というアラートを受けてから、8月17日週にほとんどの振休と夏休を突っ込んでまるまる1週間休みにした。それで、前半はアカデミーキャンプ、中盤は越後妻有トリエンナーレ、後半は実家&ボートという算段にした。結果、体を酷使したが気持ちはリフレッシュできたと思う。ただ、あらためて、考えることは増えた気がしている。

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データストラテジスト見習いを1年半やって思い立った「5つの必要なこと」

みなさまこんばんは、大半の皆さんはあけましておめでとうございます。

2014年も嵐のごとく過ぎ去り、2015年になってしまいました。2014年の26歳の誕生日に掲げた基本コンセプト「かわいく生きる」はそのままに、2015年はより「ていねいに生きる」を志向して過ごしたいと思います。

2014年も相変わらずいろいろなことがありました。雪合戦に行ったり、キャンプ企画に行ったり、ボート漕いだり、携帯電話失くしたり、何度か閉じ込められたり、初めて北海道行ったり、久々に石巻行ったり、しょっちゅう郡山行ったり、突発で新潟行ったり。ですが、生活の中心はやはり仕事にあったと思います。新年早々動画作成から始まり動画作成に終わったと言っても過言ではないかもしれません。SNS出現率は輪をかけて減り、一時は死亡説さえ出ましたが、遠藤は生きています。

そう、あくまで私は「データストラテジスト見習い」をしていたのです。このブログの熱心な読者ならば私の素性はお分かりでしょうが、2013年4月に新卒入社した会社にて、その年の6月から「ビッグデータ」みたいなものを扱う集計担当をしています。その配属から1年半が経ちました。毎日がエクセル先生と接する日々、それより相性のいいパワポたんともお仕事を一緒にします。食料品・日用品分野において「それ買われてんの?」というデータを取り扱い、そうしたメーカーさまや代理店さまのご要望に沿うデータをお出しするという仕事です。ちなみに語弊があるとアレですが、見習いとはいえ「プロ」であることには変わりませんし、その自覚がないわけではありません。そこだけ、ご留意を。

世の中的には「データサイエンティスト」という職業が「セクシーだ」とされ、はて私はセクシーになれるのだろうか、いやむしろかわいくなりたいんだが、と思いつつ仕事に励んでくる中で、マーケティングの「マ」の字も知らず、統計や集計よりも資料や動画作成に勤しんでいたような私が、徐々にですが、なんとなく、データを取り扱うということについて思う所が出てきたわけです。今日は、そのうちのいくつかを、完全なる受け売りにてお伝えしたいと思います。

先に謝っておきます。無知、身の程知らずを、お許しください。

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【ダラダラ書いた】社会人になって感じた5つの「想定外」について

またちょっと、ダラダラと文章を書いてみる気が起きてきた。それだけでも進歩かもしれない、と思う。

社会人になって1年が過ぎた。正確にいえば、会社員になって1年が過ぎた。思った以上にあっという間だった。というか、気づいたらもう1年経っていて、実感というものはまるで皆無だった。こんなもんなんだろうか、こんなもんなんだろうな。

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2014年の3.11 14:46は,丸亀製麺でうどんをすすっていた。

東日本大震災で失われた多くの命に対して,哀悼の意を捧げると共に,
東日本大震災により多くの困難を未だに抱えている人々が,いち早く復興を果たすことを,心から祈念します。

さて。
明日も仕事だというのにこの時間になって考え事をはじめてしまったのはよくないことは分かっている。
最近,やたらとブログを書かなくなり,きちんと振り返る,気持ちのログを残すという行為をしていなかったせいか,ここのところ「いままでとちがう」自分が見えてきて,悩むところも多い。そんななか,久々に筆を執ろうという気持ちになったことだけでも進歩だと思うから,書きたいことを書いておきたい。

今年の3.11の14:46は,黙祷をするどころかうどんをすすっていた。
本当に申し訳ないと思うけれど,結局そんなところだった。
自分自身でも後から気づいてショックだった。

忘れないわけない,あの揺れのなか,教室設営をしていた自分は,積み重ねていた机の下敷きになってもおかしくない状況だったし,階段を降りるのもやっとだった。
忘れられるはずがない,駅に行ったら電車が止まって,バイト先には到底帰れなくて,学校に戻ったら戻ったでイベント参加している高校生たちが帰宅困難になっていた。俺は残留慣れしているからよかったが,同じく来たく困難になった大学生の多くは,高校生たちをサポートするスタッフに変わった。

程度は緩いことなど百も承知で言えば,俺だって被災した。
当事者が3.11のことを忘れるはずがない。
逆に言えば,台風被害とか,豪雪被害とか,1.17とか,申し訳ないけれど自分の経験の範疇じゃないから,大手を振って「ピンと来る」とは言えない。

何かしなきゃという焦燥感をエネルギーにして走り切ったそこからの2ヶ月。
prayforjapan.jpの多言語翻訳はきっと役に立つ,そう信じてたくさんの人の協力を得て,それでも現地で思い知ったのは,それよりも生活の確保と金の必要性だった。その一方で,非被災地だからこそ受けたショックを癒すことにつながる可能性も見いだせた。直接的な被害を受けていないとはいえ,あれだけのインパクトの出来事だったわけだ,ショックを抱えた人もまた,被災者だったと思う。

プロジェクト結を通じて石巻を訪れ,現地に必要なことを知った一方で,何もできない感覚にも襲われた。ITの領域で力を発揮出来ると思ったけれど,やっぱり現地にいかなければ意味がなかったし,それに東京からのサポートで露呈したのは自分の仕事のできなさだったりした。それは会社に入ってから拍車がかかるばかりだった。

アカデミーキャンプでは福島の子どもたちと接しているが,正直言えば子どもたちのことを「被災者」だなんて感じたことはこれっぽっちもない。かわいそうな子どもたちなんて考えたことは当然にしてない。建前上は「これからの福島を担う子どもたちに機会を与える」ことが目的だけど,結局内心では奴らとふれあうことが僕の心の癒しだったりするし,趣味だったりする。

繰り返すが,忘れられないはずがないんだけど,それは俺自身が割に当事者っぽい立ち位置にいたから,あるいは自分もアクターの一人だと認識していたからかもしれない。それでも今振り返ってみて,あのときはただガムシャラで,正直何のために動いていたのかはよく覚えていない。

そして日々に忙殺されるあまり,3.11の14:46は丸亀製麺でうどんをすすっていたわけだ。

3.11の14:46は,それはショックなことが起きた時間であることには変わりない。
毎年その時間が近づくにつれて,あのとき起きたことを思い出し,思いを馳せる。
そんなための時間として3.11の14:46というその「とき」を大切にするのは大切だ。

それはそれで大切だとしても,もっと大切なことがあるんだろう,と言って自己擁護をしたい。
大切なことは,明日に向けて何ができるかを「常に」考え,実際に行動することじゃないか,と思う。

あえてぶっちゃけると,祈りよりも想いよりも必要なのは,自分の身の安全と,大切なヒト・モノの存在と,そしてカネだ。明日に向けて,復興に向けて歩んでいくためには,「勇気」だけでは十分ではない。本当に忘れてはいけないのはこっちの方だと思う。prayforjapan.jpは,(特に非被災地の)人々の想いを,印税の寄付という形でカネと行動に替えることができ,しかも想いの共有によって(特に非被災地の)人々の不安を拭うことができた,本当に希有なプロジェクトだったと思う。あのプロジェクトをやったからこそ余計に,本当に「忘れない」で欲しいのは,次に進むための実質的な体力なんだと考えるようになった。だからこそ,震災詐欺だとあのプロジェクトを叩く人々は,きっと何もアクションを起こせないのだろうと悲しい気持ちになる。

しかし,それでも自分でも残念だが,3.11の14:46は丸亀製麺でうどんをすすっていた。
ここに現れる罪悪感はなんなのだろうか。その時間に鎮魂の祈りを捧げられなかったことに対する罪悪感。

大変申し訳ないが,被災地で被災した人々の状況と気持ちを,僕はきちんと自分ごととして理解ができていない。それは一つ,二人称で,あるいは一人称で現地の人々を捉えられていないからじゃないか,と思う。3年経った今でも活動を続ける人々は,もうすでに現地で一緒に活動を続ける人や,活動を受ける人々を,二人称どころか一人称で捉えているんだろうと思う。そこに「支援」という概念すらないかもしれない。そこまで没入している人々を近くで見ているからこそ,彼らが「3.11の14:46」に大きな想いを混めているのを見ると,自分の中途半端さが恥ずかしくなって,そして罪悪感を覚えるのかもしれない。

まだ,「それでも自分でも残念だ」と言えているだけでも,腐り切った訳じゃないと言い聞かせたい。
3年は一つの区切りと捉えられることが多い。もしこれで,これ以降5年・10年という「節目」に限らず毎年のようにやってくる3.11の14:46周辺に何も感じず,またそれに対して罪悪感すら感じなくなったとしたら,もうそれは完全に忘れている状況だろう。そうであってはいけない。

嬉しいことに,今僕が没入する活動を通じて,僕が親しみを込めて「ヤツら」と呼ぶ小中高生たちは,次に進むために自分たちで何ができるかを考え始めようとしている。「ヤツら」と一緒に,この先どう進んでいくかを考えるのが楽しみだ。

寝落ちをして,書き上げるまでに2日かかってしまった。

また明日がやってくる。

いや,来ないかもしれない。

そのために,悔いのない日々を送らなきゃいけないんだよなぁ。

民の自立:さみしいから「共」に資するんだ

久々の更新は、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス「福沢諭吉と現代1」の最終課題としてついさっき提出したものです。ちょっと、読んでほしいなぁって思って、そして自分の思考の足跡のためにも、ブログに貼ることにしました。今学期は、修士論文で死にそうになったため、SFCの修士科目をはからずもドロップアウトしてしまいました(反省しています)。しかし、この講義だけは、6年間を慶應の湘南藤沢キャンパスで過ごしたことの集大成として捉えたかったので、何度か欠席しましたが大切にしていました。

もうほんとに、SFCを卒業しなきゃいけないんですよね。


「民の自立とは、一方ではさみしいんじゃないだろうか」

最終講義で私が提示したことである。しかし、そうしたさみしさをみじんも感じられないほどに、私が講義を聴いたゲストスピーカーの方々は、それぞれに輝きを持ちながら自立を語っていた。スルガ銀行の岡野社長は自立とは頼らないことだとおっしゃった一方で、「おたがいさま」を提示していた。自立とは、ただ「誰にも頼らずに一本立ちすること」なのだろうか。この解釈を誤ると、全てを独りで背負い込むことにつながってしまうかもしれない。
独立自尊、自我作故、そうした福沢諭吉の残した概念は、単に独りであれやこれやとすることを指している訳ではないだろう。現に福沢諭吉は、慶應義塾の学びの中核概念に半学半教を位置づけている。一歩先をいくものが教え、まだ未熟のものが学ぶ。しかしここには「独りであれやこれや」ということが現れていない。とすると、福沢諭吉の示した「民の自立」とは、個々人が独りでも生きていけるようになる生き方の問題だけではないのかもしれない。

リビング・ワールドの西村さんの回は、サンフランシスコの街並の写真が導入部であった。ここで示された、公・共・私の領域の区別が、「民の自立」とはどのようなものかを捉える手がかりになると考えている。彼の話の多くの部分は、相手を・自分をどんな存在として見ているか、ということがらに軸をおいていたように思う。人とのかかわりあいにおいて重要なのは、自分が相手をどんな存在として見ているかであろう。それはとりもなおさず、自分が自分をどんな存在として見ているかにつながってくる。
社会とは人間の集合体であり、むしろそれ以上の意味合いを持っているものであるが、しかしその空間は明らかに「私」ではなく、相互行為によって調整だったり協力だったりを繰り返す必要がある場所である。時には衝突もするが、それすらどうにか折り合いを付けなければいけない。それこそが「共」の空間であり、だからこそ余計に、接する人間という存在をどう見るかということが必要になってくるだろう。

自立は、自分自身で立つということである。それには、立てるだけの能力を有しているかどうか、自分自身で分かる必要があるし、自分自身で立つ勇気の裏にある自信は、そうした能力を自覚しているからこそ出てくるものなのかもしれない。時にドット・ジェイピーの佐藤さんは、大学生時代に「自分が何をしたいか分からない」ことから社長のかばん持ちに飛び込んだ。それが現在の彼の活動に至るまでにおいて、それらの活動のミッションは後づけで、実際は周囲からの求めによって動いてきたと彼は語った。その彼が「立てるだけの能力を有しているかどうか」を自覚していたのかどうかは賛否が分かれるだろう。それでも言えることは、彼は周囲の人々のニーズに応じて自分が動くという能力を有していたし、「なにがしたいか分からない」ということを自分で理解していたということである。

「私」の自立とは、おそらく自分自身を理解することなのだろうと考える。その一方で、自立している人はどこか「共」に資する姿勢を見せているように感じる。「じぶんごと」に手一杯になるだけではまだ自立しているとはいえず、「じぶんごと」に余裕が生まれ、その部分を「共」に還元していくところに、「民の自立」の本質があるのではないだろうか。
岡野社長が「頼らない」とした相手は「公」であろう。「民」の対概念もまた「公」である。しかし、「民」は「私」を指しているのではなく、むしろ「共」を指しているように思える。玉井先生が諭吉と現代2の席で示した「新しい公共」の説明は、公に担いきれなくなった部分を民が担っていくことで歳出をそもそも押えようとする動き、というものだったと記憶している。この考え方に基づけば、「共」が「公」に頼らずに社会を動かすことが「民の自立」と呼べる状態なのかもしれない。この点で、岡野社長の示した「頼らない」ことと「おたがいさま」は相反しないということが分かる。というよりも、「頼らない」と「おたがいさま」は次元が違うことが分かる。

一身独立して一家独立、一家独立して一国独立。学問のすゝめで福沢が示した学問の意義は「立身出世」の4文字に集約されるだろうが、それは「私」空間における話ではないと思えてくる。福沢が目指したのは、学問を通じて「共」に資することのできる人財の輩出だったのかもしれない。ただ、そうした「共」に資する人財となるためには、単に「独自に」なるのでは意味がない。むしろ「さみしい」と感じるくらいに他者との関わりを持ち、そうした他者に資することを求めるところにこそ、「民の自立」の担い手が生まれるのだろう。

さみしいからこそ「共」の空間に資する。そこに自立を見いだした、6年間の締めくくりであった。

子ども国会の想い出

この文章、本当は9月のアタマに書くつもりで、最初は9月1日の社会言語科学会の道中でキーボードをたたいていましたが、いつの間にか10月になってしまいました。とにかくそのときも今も、感じることは、夏が早く過ぎた、ということです。

この夏は、僕にとっては学生最後の夏休み。多くの学生は海外に行くとか、遊びまくるとか、そういう過ごし方をするのでしょうが、僕の場合はちょっと違っていました。特に7末〜9月には、私にとって想い入れの深い出来事がいくつか起こりました。そのことをまとめたいと思います。最初は、忘れもしない12年前の再来について、つまり、参議院主催・子ども国会にOBとして招待を受けたことをお伝えします。

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