OriHimeが教室に来た話 – 道徳「『障害』を越えて – OriHimeパイロットたちの希望」

2019年の4月に出会い、そこから3年にわたって、学年団副担任・英語科教科担任として関わってきた45名の生徒の卒業を見届けて、早1ヶ月以上経ちました。彼らがすでに営みを始めている、それぞれがえらんだミチにおいて、より豊かに生きていけることを願ってやみません。

この45人との日々においては、メンタルブレイク寸前に至ったこともあったし、突然の休校に迫られたこともあったし、コンセプトのもとに集った生徒たちの自主性に感動したこともあったし、成長の尊さと、生身の思春期の人間に向き合うことのしんどさを、この3年間でだいぶ感じてきました。そんな45人の生徒たちの良さを、多くの同僚は口を揃えて「いたわり・やさしさ」と表現していました。

この記事は、この「いたわり・やさしさ」という良さに対して、あえて揺さぶりをかけることで、それでもやはり「いたわり・やさしさ」、いや、「おもんぱかり」を持って、それぞれの進路に進んでほしい、という私の願いから実践した、道徳の授業「『障害』を越えて – OriHimeパイロットたちの希望」に関する記録です。背景や経緯と、授業の進行を、それぞれ章立てしていますので、目次からご覧ください。

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私の Vision / Mission / Value

明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年頭のご挨拶も兼ねて、これまでと変わらない、今後の自分の在り様を表す Vision / Misson / Value について、その背景も含めて書き記しておきたいと思います。

というのも、2022年には、拠点やら仕事やらにおいて、変化が発生することが見通せている状態であり、そうなったときに、すくなくとも3年前に設定した自分の Vision / Mission / Value のうち、特にMissionが変わってきそうな気がしたのです。しかし少し考えてみて「いや、変わらないな」と気づきました。しかしながら、対外的なプレゼンで Vision / Mission / Value を出して話すことは多いものの、それがいったいどういう意味なのかを文面に起こしたものがないことに気づきました。そこで、改めて自分に言い聞かせる意味でも、年頭の目標設定のごとく執筆をしておこうと思います。

Vision
この生きづらい世の中で
勇気と気づきが
まだ見ぬ明日を切り拓く

Mission
学校と社会をなめらかに

Value
わたしとは違うあなたと
一緒にうまいことやって
誰かに役立つことをする

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なれない革靴で、足が痛い

ただいま、飯塚。ただいま、我が家。

ここのところ東京に行きまくっていた。懲りずに受けた国家公務員経験者採用試験(係長級(事務))のために、10月初旬と11月初旬に、さらには試験通過後の某省の官庁訪問のために11月下旬に。すべて自費の交通費もバカにならないが、冬のボーナスで精算。

そこへきて、この週末にまた上京。大学時代からプロジェクトを共にした後輩ながら、気づけば飯塚の地で私より先に学校教員をしたTFJフェローの先輩。彼女のプロジェクトも引き継いだ部分があった、ということもあり、「いったい俺は何枠?」というところで列席した挙式と披露宴は、晴天に恵まれ、暖かい演出のもと、つつがなく行われた。めでたい。

そこへきて、土発日着にすればよかったものを、金夜発にしてしまい、そして徹底的に荷物を減らそうとした結果、昨年購入してそれから登場機会の少なかった革靴を履いて、その革靴で2泊3日を過ごした。

結果、足が痛い。 続きを読む

“Try Something New” という生徒会コンセプトをめぐるいきさつ

生徒会顧問教師をしています。

マクロミル勤務時代は、人事として、現場のマネジメント課題に対して寄り添ったり、社員の成長を願いながら手立てを講じたりしてきましたが、その実、マネジメント職にあったことはありませんでした。チームメンバーをもって、成果達成のための仕事にあたる、という意味でのマネジメント業務についたのは、生徒会顧問としての職務が初めてでした。

2020年1月に発足した令和2年度執行部、そして2021年1月に発足した令和3年執行部の、2つの年度の担当をして、どちらの年度の執行部でも、期初に「年間コンセプト」を定めることにこだわりを持ってきました。つい先日、令和3年執行部・2学期の一大イベントである「文化発表会」を終えたのですが、今年の文化発表会に向けた取り組みは、この年間コンセプトを体現したと言っても過言ではない活動になりました。

タイトルにある “Try Something New” は、その令和3年執行部の生徒会コンセプトです。正式には

Try Something New
〜おそれない・みはなさない・あきらめない〜

という表記です。今回は、このコンセプトの出自と、そこにこだわった結果、起きたことについて、書いていきたいと思います。 続きを読む

学年通信文学「環境は人に意志を抱かせ、その意志が未来を切り拓く」

学年通信を担当しています。

かれこれ3年目。もう2年目の後半くらいからは、私が好き勝手にいろいろと書いてきています。過去にはこんな記事も書きました。

期せずして最後になった学年通信に「担当者が書きたいことを書くコーナー」を載せた

学年通信への文筆 – 「お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから」

学年通信文学「修学旅行で泣いた私」

そして、2学期のスタートに寄せて、そんなに長文を書かなくてもいいのに、筆が乗ってしまったのでついつい長い文を書いてしまいました。国語の長文問題を解かざるを得ない生徒たち向けの、読解トレーニングの一種だと自分に言い訳をして、いつも長く書いてしまいます。今回はその全文を、皆さんに共有しようと思います。 続きを読む

教員が「社会」に十分通用する4つのポイント – TFJフェローの修了論文として

Teach For Japanのフェローシッププログラムの2年間を終えた。

最低もう一年、2021年4月からを今いる福岡県飯塚市で、教員として過ごすことにした私にとって「終わり」という意識はこれっぽっちもない。けれど間違いなく、寄付者からの応援と、職員からのサポートと、同じフェローどうしの支えを受ける、という立場は終わりを迎えた。

日本全国から、教員免許の有無・社会人経験の有無に関わらず、教育への熱意を持つ人を集めて、地方自治体に常勤講師としてマッチングをするフェローシッププログラム。このプログラムの一つの意義は、2年間という限られた期間の中で、教育現場でもがきつつもチャレンジをする、その姿自体と、そこから見えてきたことを、世の中に発信することを通じて、教育という social agenda に光を当てることにあると思う。一人のフェローが起こせるソーシャルインパクトは小さくても、そのストーリーが誰かにとっての力となり、違った形でインパクトを生む、ということを信じるほかない。

3月27日にプログラム修了式を迎え、修了生としてプレゼンテーションをした。タイトルは「僕はこの仕事に向かない」にした。この話を職場の同僚に話したら、自虐がすぎると言われたが、私にとっては自虐というよりも自戒に近い。それほどに、私の2年間は「人としての足らずを知る」期間であり、自慢したいキラキラする実践にもチャレンジできたが、それ以上に教員という仕事の「しんどさ」と「とうとさ」を痛感するとともに、奇を衒ったものではない「ふつう」の実践を遂行するプロ性にこそ、他の職業に比しても誇れるスキルやコンピテンシーが詰まっていると感じた。

大学と院で外国語教育学を学び、教員免許も英語と社会を取得し、それでも民間企業に出てマーケティングと人事を務め、かたわらで教育系NPOの活動に従事し、なるべくしてなった教員という仕事。準備を重ねてもなお「太刀打ちできない」と感じるほどに、誇ってしかるべきこの仕事は、その実、学校外からは「やりがい」という情緒的側面で認識されるにとどまる気がしている。そして、いやむしろ、その情緒的側面での捉え方をしているのは、かくいう教員自身であり、いわゆるビジネス界との共通言語を持たないが故に、ある種不当に「社会に通用しない」と思い込まされているところがあると思う。

文科省が展開している #教師のバトン というプロジェクトが、スタート当初に阿鼻叫喚の様相を呈したように私の目には映ってしまった。思ったことは二つで、一つは、多くの教員が「そんなことよりこの大変さをなんとかしてくれ」という叫びを上げているんだなということ。もう一つは、しかしその叫びが自らの仕事に対する印象、あるいは魅力や価値そのものを下げるに至っているんじゃないか、ということだった。文科省もお気楽と性善説でこうしたプロジェクトをやればどうにかなるだなんて思っているとは考えられない。現場の状況をわかってもなお、スパゲッティ・イシューと化した学校教育の諸問題に対する、チャレンジの一つだろう。

私にできること。それは自らのミッションである「学校と社会をなめらかに」するために、いまや学校サイドにいる人間として、「社会」と呼ばれる側の共通言語を用いて、教員の魅力を語ることにある。勝手ながらにそう思っている。今回は4つのポイントでそれを語っていく。

  • 授業設計と事業企画のプロセスは似ている
  • 教員はピープルマネジメントのプロである
  • 教員の仕事は企画職としての機会だらけだ
  • 学校はマーケットと流行の縮図とも言える

まるで修了論文みたいなもんだと思って、いつもの長文はご容赦願いたい。まとめるのは無理だ。それほどまでに想いと誇りがある仕事であり、たとえ「僕はこの仕事に向かない」としても、「それでも果たすべき責任がある」といって、この仕事にとどまることを決意した、その覚悟が故の文字数である。 続きを読む

文部科学省職員になろうとしたけれど面接で落ちたので、考えた結果もう一年飯塚に残ることにしました

年末である。いろんなことが起きた2020年だった。振り返りの記事を書く人が多い中、今年の年末は家で過ごす人も多かろうから、そういう方にとっての暇つぶしくらいにはなるだろうと思い、私も1年の振り返りの記事を書くことにするのである。このブログは、自分が自分らしく自分を表現できる舞台である。関係各方面から怒られさえしなければ、恥ずかしみもなく、陰も陽もひけらかすのである。

といいつつ、去年この記事でやったように、1年のなかでのある一部分を取り出した内容を中心に展開する。本当にこの1年、いろんなことがあったわけだが、10月から11月にかけての、標題にあるような顛末が、ある意味今年のハイライトになってしまった。それくらい、私にとっては大きな出来事であった。

記事のタイトルも

「得たいと思ったものを得られなかった話」

とか

「キャリアの挫折を味わって、そしてその後について」

とか、バリエーションを用意できたのだが、どうせここから書いていく内容も、グジグジとグルグルするだけで長文になるしかないのだから、もっともストレートにメッセージを伝えられるタイトルにしておこうと思ったわけだ。一応、冒頭で珍しくサマリを書いておくと、以下の通りになる。

  1. この状況下にありながら、TFJフェロー2年目は成果を出しまくったと思う
  2. 自分の強みは「企画屋」としての振る舞いだと考え、国家公務員経験者採用を受けた
  3. 経験者採用試験の合格者名簿に搭載されたが、「即戦力として光るものが見えない」とのことで、官庁訪問終了となった
  4. いろいろ考えた結果、あと1年は飯塚に残ったほうがいいと思い、講師登録を出した
  5. 来年度にやりたいプロジェクトが頭に浮かんでいるが、その先のことは一切見えていない

では、つらつらと書き始めてみようと思う。(書き終えての追記だが、18,605文字になった) 続きを読む

学年通信文学「修学旅行で泣いた私」

生徒たちの日々の様子を伝えることが目的である学年通信。それを担当して2年目、毎週文章を書いているのですが、昨年度の終わりに書いたこの記事が好評だったことをいいことに、今年度は毎回「今週のオマケ」コーナーをつくって、QRコードで動画やサイトのリンクをつけたり、本の引用をしたりしています。今回は、どうしても書きたくなって、私の個人的な思い出話を書きました。 続きを読む

「いま、それぞれの居場所から」を終えて、これからを見つめる

2020年6月22日に、32歳を迎えました。ここまで、総じていきいきとした人生を送ることができたのは、関わった皆さんのおかげです。ありがとうございました。いまはそれから1週間経ったのですが、誕生日直前の週末、31歳最後の一大イベントとして実施してみた、オンラインインベント「いま、それぞれの居場所から」を振り返ってみたいと思います。

公称2時間、実態としては3時間ほどになるオンラインイベントを3本も主催し、しかも日曜の午前には登壇者として招いてもらった別のイベントにも3時間近く登壇していたので、12時間近くもPCの前に腰を下ろし、デスクライトの光を美人ライトがわりに浴びていたわけです。しかもだいたいのプレゼン資料は直前の急ごしらえでした。体力的には疲れていたはずですが、しかしその実、全然疲れなかったんです。

それは、これから書こうと思うようなことによる多幸感に包まれたからであり、それぞれのセッションを終えて感じたのは「豊かだ」という感覚でした。その「豊かさ」に包まれたという意味で、今年の誕生日は、おそらく今までの人生の中で一番、別に何の節目でもないにもかかわらず、とても幸せな時間を過ごすことができたと思っています。 続きを読む

学年通信への文筆 – 「お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから」

※タイトルに書いた学年通信への文筆そのものは、この記事の中段にあります。

この仕事をしていると、「腹立つ」と思うことが多い。

思春期においては、それはどうしようもないことなのだと分かっているが、「うざい」とか「きしょい」とか「だるい」とか言われるし、こちらが授業で説明をしていたりすると(こちらがそう捉えるところとしての)不規則発言で遮られるし、そのくせ話を聞いていなかったり学習活動に取り組もうとしなかったりするし、それでいて挙句「先生の授業はわかりにくい」とどストレートに言われる。

去年の最初はそういう反応にガチギレし、その後そうした反応に心を痛めつけられ、今では「腹立つわ〜、マジ今感情がコントロールできん」と言いながら相手をいびるという形でようやくコントロールを図れるまでにはなってきたが、それにしたって「腹立つ」という感情から離れられないので、まだまだ甘ちゃんだし、んにしたってこちらも一人の人間なので、そこまで聖人君主然とはできない。

本題からずれた。前述したような「腹立つ」はどこか、瞬時にどうにか治められる感情で、まぁ「小さいこと」なんだが、それはこの仕事になってから増えた気がする。他方、前職時代にときたま感じていたような、誰に対してという訳ではないが、構造上存在するような、とうてい一人の力ではどうにかできるものではない、理不尽ともいえる状況に対する、ふつふつとした怒りは、感じることは減った。

しかし今週、詳しくは言わないが、隣のクラスのある状況に出会した際に、具体的な誰かにではなく、しかしその空間に横たわる雰囲気と状況に対して、久々にふつふつとした怒りがこみ上げた。それは、信頼関係にまつわることであり、そしてともすれば、それはどうしても人々の心に蔓延ってしまう、差別を生みかねない無意識の心の動きにまつわることであった。もちろんその怒りの矛先の一つには、自分自身も含まれていて、つまり自分もそういった「無意識」を発動しかねない気もしていた。

そうして僕は、その怒りがこみ上げた日の午後の授業で、#BlackLivesMatterを引き合いに出し、生徒たちにこう突きつけた。「君たちの雰囲気に、こうしたことを起こしかねないものを感じた」と。いや、行きすぎた表現だったかもしれない。それでも、自分への戒めも多分に含みながら、人は分かり合えないこと、自分に危害を及ぼすと思しき相手を無意識に遠ざけ敵視しかねないこと、それでも、あるいはだからこそ、わかり合う努力を必要とすること、という話をした。あまり響いた感じはしなかった。

それで、以下の文章を学年通信に著した。このブログ記事に書いた通り、昨年度に期せずして最終号となってしまった学年通信に好き勝手なことを書いて以来、自分の中のたがが外れて、本当に好き勝手書いている。どうしても、学年の雰囲気を鑑みたときに、これを書きたかったし、片方のクラスしか#BLMの話をしなかったので、もう一つのクラスにも知ってもらいたくて、知識も浅はかながら書いた。教頭先生チェックは通過したし、学年主任からは「文才が素晴らしい」と言われたので、思ったより「好き勝手」とは思われなかったようだ。


お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから

6月23日(火)には、避難訓練がありました。不審者対応の避難訓練ですが、その背景には、今から19年前の6月に起きた、大阪教育大学附属池田小学校での事件があります。8人の小学生の命が奪われた事件を二度と繰り返さないように、学校をみなさんの「安心・安全な場」にするためにも、教職員のみならず、生徒の皆さんも自分の身の安全を確保することを心がけたいものです。

一方で同じ日は、沖縄慰霊の日でした。4人に1人が命を落としたといわれる、太平洋戦争の沖縄戦が終結した日。多くの命が失われることになった戦争を二度と繰り返さないためにも、生きたくても生きられなかった人々に思いをはせるのもまた、とても大切なことではないでしょうか。

学年通信の担当者は思うのです。どうすれば、お互いを憎しみ合うことなく、分かり合えるのだろうかと。しかし人はどうしても、自分が見知らぬ存在を「自分の身の安全をおびやかす」と思い込み、遠ざけたり敵意を向けたりする習性があるようです。担当者が観ていたアニメ「ソマリと森の神様」というファンタジーでも、異世界の種族が人間のことを「種族の見た目が違うだけでどうして残酷なことをするのか」と言うシーンがありました。これは現実世界にもあることで、私たちが持ってしまいかねない心の動きでもあります。

今、アメリカでは、#BlackLivesMatter という運動が起きています。警官によって黒人男性が命を落とすこととなった事件から起こったこの運動の背景には、アメリカに存在する人種差別問題があります。様々な見方・考え方がある問題ですが、相手に対する印象【だけ】で相手のことを判断してしまう、人間の特性が引き起こした事件だったとも言えます。では、私たちにできることは何なのでしょうか。サンリオのキャラクターたちが、「よりよい友人や味方になる」ためのヒントを教えてくれています。

 

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Friends are always there for one another. Here are some tips on how to be a better friend and ally 💕

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「話を聴く(LISTEN)」
「支える(SUPPORT)」
「学ぶ(LEARN)」
「質問する(ASK)」
「認める(ACKNOWLEDGE)」

思春期を過ごすみなさんの気持ちは、心の成長過程の半ばであることやホルモンバランスの関係から、安定しないことも多々あります。だからこそこの5つのヒントから、互いに分かり合うためにできることを考えてみませんか。


確かに、日々腹が立つことは以前に比べて多くなった。それはきっと、前職時代までの「オトナ」のコミュニケーション、言い換えれば、交わされる語彙が豊富であり、また何らかの「共通目的」を持ったコミュニケーションだったものが、現職においては「生身の」コミュニケーション、または語彙数が豊富でないが故の感情剥き出しのコミュニケーションになったことが原因だと分かっている。私はまだ未熟なのだが、やっぱり先達側であるこちらが、心を広く持たないとならない。

で、別に自分が何かを言われるのであれば100歩譲ってしょうがないし別にいい。けれど、自分はこと他人に対して、というか信頼をおいている仲間に対して、その存在が毀損されかねない状況になると、どうしても「ふつふつとした怒り」を感じかねないようだ。どうして、こうも分かり合えないのだろうか。どうして、こうも分かり合おうとしないのだろうか。その問いは、自分が「それでも最後には、人は分かり合える」とどこかで信じていて、それが叶わないことに対する失望でもあるのかもしれない。

僕自身は、平田オリザ氏の「わかりあえないことから」という本に修士論文執筆中に出会い、そもそも他者は自分とは完全に異なる存在である以上、完全にわかり合うことなんて無理だ、というところからコミュニケーション行為を紡いでいく、という彼の論旨に至極同意したので、「分かり合えない」ことを前提にしている。余談だが、平田オリザ氏の論は好きだったが、その後受講した青学WSD育成プログラムで平田氏のワークショップを受けた際、僕が勇気を出して挙手して発言したのを公開処刑が如く思いっきり否定された経験があり、心理的安全が毀損された思い出があるので「ふざけんな」と思っている節はある。

話がまた逸れた。僕は、たとえ「分かり合えない」ことが前提であったとしても、それは分かり合う余地がゼロな訳ではないと思っている。むしろ、互いにとってのイイカンジの落とし所は存在すると思っていて、それを互いに探り合うことこそがコミュニケーションだし、その落とし所の積み重ねこそが信頼関係だと思うのだ。それが、私のVision・Mission・ValueのValueにおいている

「わたし」とは違う「あなた」と
いっしょにうまいことやって
「だれか」に役立つことをする

という表現につながっている。

相対する「あなた」が、「わたし」と違う存在だからといって、
ラインを引いて分け隔てていいのだろうか。

どこかに分かり合える部分がないかと探っていくことは、
そんなに難しいことなのだろうか。

いや、難しいんだと思う。その意味では、学年通信に記載したアニメ「ソマリと森の神様」で柴田理恵さんが声優を務めたローザおばさんが言っていたストーリーのなかでの人間の描写は真理だし、やっぱり「分からん相手は敵」というのは元来備わった防衛本能な気がする。だからこそ、その「本能」を解きほぐし、「分かり合えない」ことを、そのままにせず、少しでも「分かり合う」ための方法を学んでもらうことが、私の教員としての役目の一つだと信じてやまない。

サンリオキャラたちが提示した5つのヒントは、こうして記事を書いている自分自身に対してもまた、つきつけられるべきものだと思っている。決して生徒たちの意志ではなく、ただ彼らの成長過程が道半ばであるということからくる、語彙の少なさや感情表現の未経験さ、そして接する人の事例の少なさが故に生じてしまう、こちらが「敵意」と感じてしまったり、あるいは「コントロールしたくなる」情況に対してこそ、学び・尋ね・聴き・認め・支えるということが必要となるのだ。

この仕事についていると、自分が言った言葉はだいたいブーメランである。自分自身が「できた人間」である必要を感じるが、しかしだいたいそうもいかないので、「人間そこまで、分かり合えないし、完璧にはなれない」ことを前提にしながら、相手にていねいに接していこうとする気持ちは忘れないようにしたい。そうした接し方こそ、「分かり合い信頼し合う」ためのヒントを相手に配ることにつながると信じて。