「なにもしない」を赦せるようになってきた(お題:連休最後の日)

連休最終日である。22時を過ぎ、あと少ししたら床につかないとというところだが、少しだけ物書きをしたいという、軽い衝動に駆られて、TwitterとFacebookでテーマを募集してみたら、Facebook側では、思いのほかたくさん返信をいただいた。

今回はそのなかで、TwitterのDMでいただいた、「連休最後の日」というテーマを書き出そうと思う。他にもたくさんのテーマをいただいたが、それは今後、気が向けば週1本ペースくらいで、書けるところから記事にしていければと思っている。 続きを読む

文部科学省職員になろうとしたけれど面接で落ちたので、考えた結果もう一年飯塚に残ることにしました

年末である。いろんなことが起きた2020年だった。振り返りの記事を書く人が多い中、今年の年末は家で過ごす人も多かろうから、そういう方にとっての暇つぶしくらいにはなるだろうと思い、私も1年の振り返りの記事を書くことにするのである。このブログは、自分が自分らしく自分を表現できる舞台である。関係各方面から怒られさえしなければ、恥ずかしみもなく、陰も陽もひけらかすのである。

といいつつ、去年この記事でやったように、1年のなかでのある一部分を取り出した内容を中心に展開する。本当にこの1年、いろんなことがあったわけだが、10月から11月にかけての、標題にあるような顛末が、ある意味今年のハイライトになってしまった。それくらい、私にとっては大きな出来事であった。

記事のタイトルも

「得たいと思ったものを得られなかった話」

とか

「キャリアの挫折を味わって、そしてその後について」

とか、バリエーションを用意できたのだが、どうせここから書いていく内容も、グジグジとグルグルするだけで長文になるしかないのだから、もっともストレートにメッセージを伝えられるタイトルにしておこうと思ったわけだ。一応、冒頭で珍しくサマリを書いておくと、以下の通りになる。

  1. この状況下にありながら、TFJフェロー2年目は成果を出しまくったと思う
  2. 自分の強みは「企画屋」としての振る舞いだと考え、国家公務員経験者採用を受けた
  3. 経験者採用試験の合格者名簿に搭載されたが、「即戦力として光るものが見えない」とのことで、官庁訪問終了となった
  4. いろいろ考えた結果、あと1年は飯塚に残ったほうがいいと思い、講師登録を出した
  5. 来年度にやりたいプロジェクトが頭に浮かんでいるが、その先のことは一切見えていない

では、つらつらと書き始めてみようと思う。(書き終えての追記だが、18,605文字になった) 続きを読む

高校生マイプロ2019九州サミットのファシリテーターをやった:後編・プロジェクトへの葛藤と成長

2月23日に、全国高校生マイプロジェクトアワードの九州サミットに、発表会場のファシリテーターとして参加した。そのことは、「前編・場づくり担当のあたまのなか」でも書いていて、自分にとって久々に心から楽しいと思えると同時に周囲からもお誉めにあずかったファシリテーションのポイントを書いた。ちなみにその後、『博報堂流 対話型授業のつくり方』(大木浩士, 2020)を読んだが、面白いほどに近い考え方で場づくりをしていたことが分かった。

ところで、僕自身は「プロジェクト」にものすごい強い思い入れがあることもあって、当日の午前中のブロック別プレゼンの場づくりにおいては「くやしさ」を一つのテーマにした。けれどプロジェクトを進める上では、「くやしさ」以外にもさまざまな感情がうずまくことが多い。そうした感情は、葛藤や悩みや引け目として訪れることもしばしばある。そしてこの日の午後、僕はそうした感情を持っていた、ある生徒と出会う。

ギリギリのラインで、ストーリーの一端を記述するので、もしかするとこの記事は今後お蔵入りするかもしれない。けれどこの話は、僕を揺さぶり、僕を「おせっかい」に駆り立てる、そんな話だ。前編をお読みいただいた上で読んでもらえれば、様相がありありと浮かんでくると思うので、前編と合わせてどうぞ。 続きを読む

宮古島での「 #人事ごった煮 」交流会の振り返り

今年も、宮古島に行ってきました。というのを大々的に言うのが憚られる時期に差し掛かってきましたね。もちろん、感染対策は十分に講じながら過ごしたのは言うまでもありません。

昨年は1泊2日でしたが、今回は2泊3日することができ、少し余裕を持った過ごし方をすることができました。昨年に引き続き、折りたたみ自転車を持ち込んで島内を走り、昨年は伊良部大橋を、そして今年は来間大橋と池間大橋を渡ることができました。癒される場所なのに、自分の体を酷使するというのは、なんとも変態的だなと自分でも思いますし、さらに言えば、ライドは前回の宮古島以来の1年ぶりだったので、劇的な体力低下を感じました。

さて今、帰りの飛行機の中です。今回の来島も「 #人事ごった煮 」というコミュニティの交流会への参加がその理由です。そこで感じたことを書き連ねることで、ここのところしばらくサボっていた文筆の感覚を取り戻したいと思います。

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学年通信文学「修学旅行で泣いた私」

生徒たちの日々の様子を伝えることが目的である学年通信。それを担当して2年目、毎週文章を書いているのですが、昨年度の終わりに書いたこの記事が好評だったことをいいことに、今年度は毎回「今週のオマケ」コーナーをつくって、QRコードで動画やサイトのリンクをつけたり、本の引用をしたりしています。今回は、どうしても書きたくなって、私の個人的な思い出話を書きました。 続きを読む

相手があっての自分、ということについて – 2018年の「箱根山学校」の記録を書き起こす

この連休で、「箱根山学校」というワークショップに参加している。

岩手県陸前高田市にある「箱根山テラス」という施設で行われる、風を感じながら、「定点観測」をするような会が、今回オンラインで行われている。いろんな人の話を聞くことができる機会で、2017年と2018年に現地で参加した。

今回、2017年と2018年に、自分の記録としてメモをとりつづけたスケッチブックに、その続きとしてメモをとっていこうと取り出し、その中で、2018年の初日に綴った文を見つけたので、眠くなるまでの間、打ち込んでみようと思う。 続きを読む

生徒会役員向けに使ってきたフレームワーク集

生徒会役員の顧問教師をしている。

どうやら普通なら数名で担当する、それこそ各学年に1名ずつ担当者がいるようなのだが、勤務校は1人1分掌制なので、担当者は私だけである。昨年の12月に、ピンチヒッターとして参加した修学旅行のUSJの入り口で言い渡されたのがすべての始まりで、昨年度の担当者が早期退職をすることになったことに伴い、2020年1月から引継ぎ期間を持ちながら、2020年1月に代替わりした令和2年度の役員たちの顧問をしている。校長に「なんで私なんですか」と聞いたら、「その方があなたの引き出しを活かせると思って」とのことだった。

実際ここまで、確かに自分の引き出しを出せている感覚はある。

大学と大学院で研究をし、マーケティングリサーチ企業でマーケティングとデータ分析を経験し、人事として採用・研修・制度設計を担当し、教育団体でプロボノとして動き、ワークショップデザイナーとして学びと実践をしてきた人生であった。それを通して学んできたのは「わたしとは違うあなたと、一緒にうまいことやって、だれかに役立つことをする」というスタンスと、それを達成するための技術だった。特にその技術とは、相手と対話する、相手の納得と協力を引き出す、相手と事を成すために越えるべき課題を紡ぐ、といったことがらのために、考えを整理すること=フレームを用いることだと思う。

つい先日、1学期の生徒会活動の大舞台でもあった生徒総会が終わったのだが、あらためてここまでの活動で私が生徒に提示してきた「考え方」や「フレーム」を紹介していきたい。きっと誰かの役に立つことを願いつつ。 続きを読む

オンライン学習のよもやま:⑦「タブレット調達に向けた情報整理」を作った

コロナ禍における学習保証の話と、GIGAスクール構想の話とが相まって、オンライン学習がいろいろ騒がれていたが、気づいたら学校が再開となり、下手をするとオンライン化うんぬんは下火になりかねない。しかしだからといってGIGAスクール構想は止まらないわけで、そうなったらマジで困る。だから、シリーズ記事の書き出しを揃えること以上に、絶対に忘れてはならないので「例の動画」の印象深いスライドを貼っておく。

Youtube動画からキャプチャしました

文科省の動画配信「学校の情報環境整備に関する説明会」で、担当課長が強い語気でこのスライドを出した件、ありうる「第二波」を考えればやっぱり止めてはならない。「うまいこと、しれっとやる」の精神で、いろんな情報を収集したし、いろんなことを考えたし、いろんなことを実践している最中である。自分の記録として、バラバラと、残しておこう。

今回は、「例の動画」にて考えたことを記事にした②の記事をスライド化して資料を作った話。ちなみに最初に書き始めたのが5月31日で1ヶ月半もほったらかしてしまった。 続きを読む

「いま、それぞれの居場所から」を終えて、これからを見つめる

2020年6月22日に、32歳を迎えました。ここまで、総じていきいきとした人生を送ることができたのは、関わった皆さんのおかげです。ありがとうございました。いまはそれから1週間経ったのですが、誕生日直前の週末、31歳最後の一大イベントとして実施してみた、オンラインインベント「いま、それぞれの居場所から」を振り返ってみたいと思います。

公称2時間、実態としては3時間ほどになるオンラインイベントを3本も主催し、しかも日曜の午前には登壇者として招いてもらった別のイベントにも3時間近く登壇していたので、12時間近くもPCの前に腰を下ろし、デスクライトの光を美人ライトがわりに浴びていたわけです。しかもだいたいのプレゼン資料は直前の急ごしらえでした。体力的には疲れていたはずですが、しかしその実、全然疲れなかったんです。

それは、これから書こうと思うようなことによる多幸感に包まれたからであり、それぞれのセッションを終えて感じたのは「豊かだ」という感覚でした。その「豊かさ」に包まれたという意味で、今年の誕生日は、おそらく今までの人生の中で一番、別に何の節目でもないにもかかわらず、とても幸せな時間を過ごすことができたと思っています。 続きを読む

学年通信への文筆 – 「お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから」

※タイトルに書いた学年通信への文筆そのものは、この記事の中段にあります。

この仕事をしていると、「腹立つ」と思うことが多い。

思春期においては、それはどうしようもないことなのだと分かっているが、「うざい」とか「きしょい」とか「だるい」とか言われるし、こちらが授業で説明をしていたりすると(こちらがそう捉えるところとしての)不規則発言で遮られるし、そのくせ話を聞いていなかったり学習活動に取り組もうとしなかったりするし、それでいて挙句「先生の授業はわかりにくい」とどストレートに言われる。

去年の最初はそういう反応にガチギレし、その後そうした反応に心を痛めつけられ、今では「腹立つわ〜、マジ今感情がコントロールできん」と言いながら相手をいびるという形でようやくコントロールを図れるまでにはなってきたが、それにしたって「腹立つ」という感情から離れられないので、まだまだ甘ちゃんだし、んにしたってこちらも一人の人間なので、そこまで聖人君主然とはできない。

本題からずれた。前述したような「腹立つ」はどこか、瞬時にどうにか治められる感情で、まぁ「小さいこと」なんだが、それはこの仕事になってから増えた気がする。他方、前職時代にときたま感じていたような、誰に対してという訳ではないが、構造上存在するような、とうてい一人の力ではどうにかできるものではない、理不尽ともいえる状況に対する、ふつふつとした怒りは、感じることは減った。

しかし今週、詳しくは言わないが、隣のクラスのある状況に出会した際に、具体的な誰かにではなく、しかしその空間に横たわる雰囲気と状況に対して、久々にふつふつとした怒りがこみ上げた。それは、信頼関係にまつわることであり、そしてともすれば、それはどうしても人々の心に蔓延ってしまう、差別を生みかねない無意識の心の動きにまつわることであった。もちろんその怒りの矛先の一つには、自分自身も含まれていて、つまり自分もそういった「無意識」を発動しかねない気もしていた。

そうして僕は、その怒りがこみ上げた日の午後の授業で、#BlackLivesMatterを引き合いに出し、生徒たちにこう突きつけた。「君たちの雰囲気に、こうしたことを起こしかねないものを感じた」と。いや、行きすぎた表現だったかもしれない。それでも、自分への戒めも多分に含みながら、人は分かり合えないこと、自分に危害を及ぼすと思しき相手を無意識に遠ざけ敵視しかねないこと、それでも、あるいはだからこそ、わかり合う努力を必要とすること、という話をした。あまり響いた感じはしなかった。

それで、以下の文章を学年通信に著した。このブログ記事に書いた通り、昨年度に期せずして最終号となってしまった学年通信に好き勝手なことを書いて以来、自分の中のたがが外れて、本当に好き勝手書いている。どうしても、学年の雰囲気を鑑みたときに、これを書きたかったし、片方のクラスしか#BLMの話をしなかったので、もう一つのクラスにも知ってもらいたくて、知識も浅はかながら書いた。教頭先生チェックは通過したし、学年主任からは「文才が素晴らしい」と言われたので、思ったより「好き勝手」とは思われなかったようだ。


お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから

6月23日(火)には、避難訓練がありました。不審者対応の避難訓練ですが、その背景には、今から19年前の6月に起きた、大阪教育大学附属池田小学校での事件があります。8人の小学生の命が奪われた事件を二度と繰り返さないように、学校をみなさんの「安心・安全な場」にするためにも、教職員のみならず、生徒の皆さんも自分の身の安全を確保することを心がけたいものです。

一方で同じ日は、沖縄慰霊の日でした。4人に1人が命を落としたといわれる、太平洋戦争の沖縄戦が終結した日。多くの命が失われることになった戦争を二度と繰り返さないためにも、生きたくても生きられなかった人々に思いをはせるのもまた、とても大切なことではないでしょうか。

学年通信の担当者は思うのです。どうすれば、お互いを憎しみ合うことなく、分かり合えるのだろうかと。しかし人はどうしても、自分が見知らぬ存在を「自分の身の安全をおびやかす」と思い込み、遠ざけたり敵意を向けたりする習性があるようです。担当者が観ていたアニメ「ソマリと森の神様」というファンタジーでも、異世界の種族が人間のことを「種族の見た目が違うだけでどうして残酷なことをするのか」と言うシーンがありました。これは現実世界にもあることで、私たちが持ってしまいかねない心の動きでもあります。

今、アメリカでは、#BlackLivesMatter という運動が起きています。警官によって黒人男性が命を落とすこととなった事件から起こったこの運動の背景には、アメリカに存在する人種差別問題があります。様々な見方・考え方がある問題ですが、相手に対する印象【だけ】で相手のことを判断してしまう、人間の特性が引き起こした事件だったとも言えます。では、私たちにできることは何なのでしょうか。サンリオのキャラクターたちが、「よりよい友人や味方になる」ためのヒントを教えてくれています。

 

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Friends are always there for one another. Here are some tips on how to be a better friend and ally 💕

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「話を聴く(LISTEN)」
「支える(SUPPORT)」
「学ぶ(LEARN)」
「質問する(ASK)」
「認める(ACKNOWLEDGE)」

思春期を過ごすみなさんの気持ちは、心の成長過程の半ばであることやホルモンバランスの関係から、安定しないことも多々あります。だからこそこの5つのヒントから、互いに分かり合うためにできることを考えてみませんか。


確かに、日々腹が立つことは以前に比べて多くなった。それはきっと、前職時代までの「オトナ」のコミュニケーション、言い換えれば、交わされる語彙が豊富であり、また何らかの「共通目的」を持ったコミュニケーションだったものが、現職においては「生身の」コミュニケーション、または語彙数が豊富でないが故の感情剥き出しのコミュニケーションになったことが原因だと分かっている。私はまだ未熟なのだが、やっぱり先達側であるこちらが、心を広く持たないとならない。

で、別に自分が何かを言われるのであれば100歩譲ってしょうがないし別にいい。けれど、自分はこと他人に対して、というか信頼をおいている仲間に対して、その存在が毀損されかねない状況になると、どうしても「ふつふつとした怒り」を感じかねないようだ。どうして、こうも分かり合えないのだろうか。どうして、こうも分かり合おうとしないのだろうか。その問いは、自分が「それでも最後には、人は分かり合える」とどこかで信じていて、それが叶わないことに対する失望でもあるのかもしれない。

僕自身は、平田オリザ氏の「わかりあえないことから」という本に修士論文執筆中に出会い、そもそも他者は自分とは完全に異なる存在である以上、完全にわかり合うことなんて無理だ、というところからコミュニケーション行為を紡いでいく、という彼の論旨に至極同意したので、「分かり合えない」ことを前提にしている。余談だが、平田オリザ氏の論は好きだったが、その後受講した青学WSD育成プログラムで平田氏のワークショップを受けた際、僕が勇気を出して挙手して発言したのを公開処刑が如く思いっきり否定された経験があり、心理的安全が毀損された思い出があるので「ふざけんな」と思っている節はある。

話がまた逸れた。僕は、たとえ「分かり合えない」ことが前提であったとしても、それは分かり合う余地がゼロな訳ではないと思っている。むしろ、互いにとってのイイカンジの落とし所は存在すると思っていて、それを互いに探り合うことこそがコミュニケーションだし、その落とし所の積み重ねこそが信頼関係だと思うのだ。それが、私のVision・Mission・ValueのValueにおいている

「わたし」とは違う「あなた」と
いっしょにうまいことやって
「だれか」に役立つことをする

という表現につながっている。

相対する「あなた」が、「わたし」と違う存在だからといって、
ラインを引いて分け隔てていいのだろうか。

どこかに分かり合える部分がないかと探っていくことは、
そんなに難しいことなのだろうか。

いや、難しいんだと思う。その意味では、学年通信に記載したアニメ「ソマリと森の神様」で柴田理恵さんが声優を務めたローザおばさんが言っていたストーリーのなかでの人間の描写は真理だし、やっぱり「分からん相手は敵」というのは元来備わった防衛本能な気がする。だからこそ、その「本能」を解きほぐし、「分かり合えない」ことを、そのままにせず、少しでも「分かり合う」ための方法を学んでもらうことが、私の教員としての役目の一つだと信じてやまない。

サンリオキャラたちが提示した5つのヒントは、こうして記事を書いている自分自身に対してもまた、つきつけられるべきものだと思っている。決して生徒たちの意志ではなく、ただ彼らの成長過程が道半ばであるということからくる、語彙の少なさや感情表現の未経験さ、そして接する人の事例の少なさが故に生じてしまう、こちらが「敵意」と感じてしまったり、あるいは「コントロールしたくなる」情況に対してこそ、学び・尋ね・聴き・認め・支えるということが必要となるのだ。

この仕事についていると、自分が言った言葉はだいたいブーメランである。自分自身が「できた人間」である必要を感じるが、しかしだいたいそうもいかないので、「人間そこまで、分かり合えないし、完璧にはなれない」ことを前提にしながら、相手にていねいに接していこうとする気持ちは忘れないようにしたい。そうした接し方こそ、「分かり合い信頼し合う」ためのヒントを相手に配ることにつながると信じて。